Bunkamuraミュージアムプラハ国立美術館展を見て来た。こういう「デパート主催のダメ名画展」というのを見るのも久しぶりだ。要するに、ろくな作品がないだけでなく、積極的に“悪い”作品すら混入している展覧会で、いったい誰が、どのような基準でこれらの作品を選んだのかは知らないが、いくつかの作品は目に入ると毒になりそうな程だ。一応断っておくと、僕はこういう「百貨店のダメ名画展」というものがキライではない。たいてい佳作が1-2点しかないのだけど、その1-2点は、いざ見ようと思ったらヨーロッパやアメリカに行くしかないし、行かなければ絶対にみられない。この「絶対」は本当に絶対なので、こういうところが美術のヤバさなのだ。デパート美術展の全部がそうだと言っているのではなくて、過去にはあそこやあそこの百貨店でメイプルソープ展とか(当然いろいろ検閲済み)スーチン展とかトム・ウエッセルマン展とか、時折悪く無い企画もあった。某小田急美術館でのホルストヤンセン展で女性器がでかでかと描かれた作品がばーんと飾ってあって、数名連れ立っていたマダム達がしばらく怪訝な顔をしていた後(あまりにアップなので一見なんの絵だかわからない)、慌てて去ってゆく後ろ姿を見た、なんていうのは味わい深い記憶だ。


今回のプラハ国立美術館展も、見るに値するのは序盤のピーテル・ブリューゲル(子)の「東方三博士の礼拝」だけだろう。僕が、将来プラハ国立美術館に行ってこの作品を見る可能性などほとんどないに等しいだろうし、そう考えれば今回1300円を払って来た意義は十分あると考える。だから、例え妙にしっかりとイマイチな模作を模作と断ってかなりの点数飾ってあったりする展覧会であっても、「金返せ」などとは言うわけがない(皮肉ではない)。ブリューゲル派の作品で、僕がもっとも好きな雪の白の硬質なテクスチャーと、微妙な鮮やかさのある褐色(ローアンバー系の顔料だろうか)のコントラストが美しく、しかも冬のフランドルの風景に聖書の東方三博士の礼拝のエピソードを組み込んだという、風俗画が多い印象のブリューゲル一族の仕事としては面白い主題で、昨年の国立西洋美術館でのベルギー王立美術館展で見た、ピーテル・ブリューゲル(父)の真筆かどうか疑わしい「イカロスの墜落」よりは良い作品だったと思う。


実際、一見しただけではほぼ風俗画というか、当時のフランドルの雪景色の町並みを描いたとしか思えない作品で、タイトルで主題を知った上で画面を相応に注意して見ないと、いったいどこで「東方三博士の礼拝」が行われているかが分かりにくい。カメラがかなり引いた状態で、一種のモブ・シーンになっている。マリアやイエスといった特権的な人物を示す徴候は何も無く、彼等は完全にこの現世に溶け込み、紛れ込み、見逃されるようでもある。雪によって反射された光りが遍在しているというよりは、構築されたマチエール自体が光りを含み込むような表面をしている。超越論的集中構図ではない、北方的/経験主義的視覚、という言い方ではやや粗雑で、言ってみればその中間、世界を“すこしだけ離れた所から”傍観するような視界が展開しているのがブリューゲル派の良質な作品の特徴に見える。後のフェルメールの風景画と共通するものを感じるのは深読みだろうか。


残りはむしろ一瞥もしない方が良い作品が大半で、ルーベンスに関しては模作や工房のものでほぼ占められており、ちょっと副題に彼の名を出すのはいかがなものかと思わせる。1点、グリザイユの下絵があってわずかに興味をひかれたけれども、別段絵として魅力的なものではない。Bunkamuraミュージアムは今年この後、ルドンとルノアールの展覧会があるらしいが、それのクオリティが心配になってくる。中盤にあった、大作の一部が切り取られたような葡萄の静物画は魅力があり、ヤン・ブリューゲル(子)に帰属(また微妙な表記だ)とある磁器の花瓶の花の作品は、主題も形式もフランドルのスペインとの深い関係を感じさせるもので、そこそこの完成度がある。この、スペインのボデゴンやその影響下のフランドルの静物画は、いつ、どこで見ても不思議なくらい品質が一定の幅に納まっていて、むしろ工芸品といっていいくらいの感覚なのだけど、どこか暗さが残る妙な光の感覚があって嫌いではない。


とはいえ、ピーテル・ブリューゲル(子)の、そこそこの佳品1枚に渋谷の雑踏を歩いてチケットを買う気のある人でなければ、まぁちょっと薦めるのは厳しい。ル・シネマのスケッチ・オブ・フランクゲーリーも13日までだが、映画として面白いのか怪しくてパスしてしまった。


プラハ国立美術館