コンセプチュアル・アートはどこで間違えたのだろう。今年の1月から断続的に行われていたphotographers' galleryでの林道郎氏によるコンセプチュアル・アートと写真についての講座全5回のうち、制作にかまけてすっぽかしてしまった2回目を除く4回は聞きに行ったのだけど、僕がずっと考えていたのはきっとそんな事だと思う。あと1回、おまけというか追加された講議があるようだけど、とりあえずここまでの僕自身の思考をまとめておく(けして講義の内容のメモでないことに注意)。


めちゃくちゃに単純化してしまえば、グリーンバーグ流のモダニズム還元主義に対するカウンターとして、その論理をリテラルに徹底して破綻に追い込むという「脱構築」(いまや懐かしい言葉だ)がコンセプチュアル・アートだったとして、そのポイントは二つある。一つは“純粋化”という手法で、アートから構図・構成といった作者性を排し、その結果浮上した物質性をも排除した結果「言葉」が残った、という点だ。この「言葉」が、様々なものを排除した果てに“最後の1つ”として残った瞬間、無限のもの、そこにはミニマルアートからコンセプチュアルへ流れる途中で廃棄された筈のイメージや物質性や作家性も当然含まれるのだが、とにかくほとんどありとあらゆるもの、「なにもかも全部」を再召還してしまったのではないか。そして、そのことが次のポイントを産んだと思うが、この恐慌状態に対して、コンセプチュアル・アートはそれらをコミュニケーションの問題として処理してしまったのではないか。


まず最初の「純粋化」という論理は、実は美術作品の自立、というテーゼの誤読(もちろんそれが半ば意図的な誤読であったのかもしれないとしても)によるものだったのではないだろうか。行ってみれば目的と手段の取り違えがおきたと言ってもいい。グリーンバーグの最大の可能性は「美術(作品)の自立」の手段/手法として「純粋化」が要請されるということで、逆ではない。この点、グリーンバーグの記述もやや曖昧なのだが、だとしたら「芸術と客体性」を書いたマイケル・フリードは、グリーンバーグよりずっと正しかった、と言うべきだろう。ぶっちゃけて言えば、そこでアートは純粋化=単純化を計ったために退屈になったわけだ。ここを外さずに「自立化」を内在的に考えれば、むしろ美術は複雑化の道を辿った筈だし、それがアンソニー・カロを持ち上げたマイケル・フリードの理論的核心だったのではないか(惜しむらくは、ここでチョイスされたカロが、十分適切な作家ではなかったのではないか、ということだ)。


それでもまだ可能性はあった、というか、意識的/無意識的いずれであっても「リテラルに突き詰めて壊す」ことが目的であった以上、少なくとも政治戦略的にはここまでは「あえて」の姿勢としてコンセプチュアル・アートは誠実だったと言っていいだろう。しかし、第2のポイントに関しては、コンセプチュアル・アートははっきりと自らの逃げ道としてコミュニケーションという場に流れていったのではないか。純粋化によって言葉が残った、という瞬間、それは恐るべき象徴界全体の流入を引き受けざるをえなかった筈なのだ(こういう時に精神分析の言葉を使うのは抵抗があるが、話しの効率化上しかたがない)。言ってみれば「単一性」を徹底して追求し、それが実現しようとした瞬間、その単一性は内破し、それまで苦労して追い払ってきた「不純なもの」全てがゾンビのように蘇った、と言っていい。匿名性を求めたにも関わらずスターが発生し、商品/資本へ対抗しようとしたものがマーケットを形成し流通してしまう。こういったコンセプチュアル・アートの「敗北」は、けして状況論だけでなく、論理的な帰結としてあったとすら感じられる。


雪崩のような「言葉」の猛威は、いつしかイメージのようなものまで繰り込んでしまう。例えばコンセプチュアル・アートの主要な作品形態であるアーティストブックにおいては、その骨格において「フォント」と「写真」が中核的な立場を占める。面白いのが、ここでコトバの部分を担う文字=フォントは、そのデザインとレイアウトによって極めてイメージとして強い力を持っている場合が多い、ということだ(ルシェの「26のガソリンスタンド」の表紙など、既にアイコン化している)。そもそも絵画的イメージに対抗して、思い描けないイメージ(ex.この雪は白くない/デカルトの千角形)を導入してきたコンセプチュアル・アートも、それを作品として定着させる現実的な着陸点においては、アルファベットという表音文字のビジュアル+レイアウトが形成するイメージは排除できないわけだ。そしてそこに一緒に配されることの多い写真は、ほとんど芸術的内実を持たず、一種のインストラクションの図として示される。ここで写真というイメージは、ほぼ言語に近い記号になってゆく。ちょっと飛躍してつなげれば、いわばここでコンセプチュアル・アートは、ラカン的構造を更に批判的に一ひねりねじったような可能性を見せていた筈だ(遡って考えれば、抽象表現主義は極めてフロイト精神分析主義に親和性が高い)。


しかし、結局のところ、コンセプチュアル・アートは最終的にコミュニケーションの問題に横滑りしてしまう。イメージや物質性、作家性を排除するためにもたらされたインストラクション(指示)がもたらす観客への効果をシアトリカリティと呼んでしまうのはやや留保が必要だろうが、しかし、コンセプチュアル・アートが好んで用いたコミュニケーション的手法の基底は、ラカン的というよりはメルロ・ポンティ的現象学に基づいているのは確かだと思える。コンセプチュアル・アートが好む一種のギャグ趣味、「芸術」を逆手にとり単純なラフさをパフォーマンスして“笑い”に繋げるという趣味(ここには明らかに、グリーンバーグとは違いながらどこかで通底する“趣味”がある)は、実は近代芸術の崇高性を前提として共有していないかぎり成り立たない。いくつかの作品に単なる「お笑い」ではないおそろしさ・おぞましさを露呈させるようなものがあったとはいえ(バルダッサリの最良の作品とか)、多くは内輪のジョークとなり、その作品としての弱さがコミュニケーションを利用するというよりはコミュニケーションに依存することに繋がり、こういった弱さが、やがてやってくるニューペインティングのあられもないイメージ/物語り再導入や、メディアアートなどに見られるコミュニケーション至上主義、あるいはマーケット至上主義を招来したのではないか、というのはいじわるにすぎる見方だろうか。


コンセプチュアル・アートに対してこういった批判的見方になるのは、僕自身が「アメリカ抽象表現主義以降コンセプチュアル・アートまでの流れの誤りをやり直す」という意識が自分の制作活動の中に含まれているからかもしれないが、いずれにせよ、「イメージとしてのニッポン主義でアメリカ市場帝国に逆上陸」というパターンで覆われている国内の美術業界や、一部で政治的なものを背景に「バカなアメリカなど相手にしないでヨーロッパだけでいこう」とする教養主義の狭間で、まともに正面から美術におけるアメリカの可能性と不可能性をしっかりと捉えていこうとしていた今回の講座が、物凄く貴重なものだったことは確かだ。以前も書いたことだが、たとえどのような手法や立場をとっていたとしても、現在の日本で何事かをなす時に基盤になるインフラストラクチャー(物理的だろうが理論的だろうが)の、ほとんど大半はアメリカ的なものに依存している。そこを批判的に検討し、単に反抗するのでも癒着するのでもなく止揚しようと思えば、今回の林道郎氏の講座がしめしたような「まとも」な姿勢は当然のものの筈なのだけど、それが滅多に見つからないものだとしたら、危機感はより強く感じざるを得ない。