GALERIE ANDOで見た内海聖史氏の新作絵画について。この展覧会及び作品には、先の資生堂ギャラリーart egg展(参考:id:eyck:20070329)よりも遥かに明瞭に内海氏の特徴が現れていると思える。つまり、今までも指摘したことだが、内海聖史氏は大きさの作家と言うより質の作家なのだ。ここで言う質とは物質性、ということであり、内海氏にとっての物質性とは絵の具の物質性であることも過去記述した(参考:id:eyck:20051019)。けしてひろくはないギャラリーの壁面のサイズにあわせて、わずかに周囲に余白をもちながらほぼその壁面を覆う分割パネルを準備し、そこに張られた綿布に油絵の具を塗布し、さらに綿棒でサーフェースを形成するという内海氏の手法は安定していて揺るぎないが、今回の展示では今まで潜在していた色彩の多色性、正確にいえば複数の色彩間における絵の具の関係性が追求されている。


このGALERIE ANDOでの出品作をして「小さくなった」と言うのは語弊がある。一般的な国内の現代絵画としては、十分な大作なのだ。だが、横9メートルを超える資生堂ギャラリーでの展示の記憶が新しい観客にとっては、相対的に小さい作品になったと思えることは事実だろう。その上で、空間を圧し観客の知覚を飲み込むような作品の強度は、むしろ強まっていると言うべきだ。そのような感覚が与えられるのは、まず第一に絵の具の密度の感覚的高さが上がっていること、第二に基底材と絵の具の段差が強化されコントラストが上がっていること、第三に壁面に対する作品の占有率、とううよりは占拠率が上がり、空間の広がりの中の作品の存在感が大きくなっていることがあげられる。第一点目に関しては、筆のタッチによる円の形成の反復的積み重ねで生成されていた資生堂の作品に対し、今回の作品のテクスチャは綿棒という、断面積の小さな道具によって形成されているため、一定の単位面積あたりのタッチが細かくなり、しかもその打刻の圧力による絵の具の盛り上がりが表面に圧力を感じさせる為、ごく単純に密集感覚が上がっている。第二の点では、絵の具の明度が相対的に下がった結果、綿布の白との境界線(エッジ)がソリッドになっている。


第三の点では、照明バトンの影響などを勘案せずにすむため、ほぼ壁面のサイズそのままに近い作品が可能になった。結果、壁面上下におおきな空隙のあった資生堂での展示に比べて作品は空間に対峙する圧力を上げ、展示場を基底材の一部と捉える(この言い方が踏み込み過ぎなら、「展示空間を絵画経験を形成する材料の一部と捉える」と言い換えてもいい)内海氏は、結果的に地としての空間に対して、図としての作品の割合とコントラストを強めたことになる。従って、見方によっては、抜けの大きさが開放感に繋がっていたかもしれない前回展よりは、圧迫感があるとも言えるだろうが、そもそも内海氏は「気持ちが良い絵」よりは、このような腕力を見せる作家なのではなかったか。いずれにせよ、このような内海氏の特徴を勘案すれば、「広さ」「大きさ」は内海氏の作品にとって必要なものというよりは、むしろ与えられた条件として処理せざるをえない要件なのであり、作品の中核的なポイントではなくあくまで付加的なものにすぎない事は明白だ。内海聖史氏が重視しているのは「空間における作品(経験)の純度=占拠率」であり、それはあくまで「率」である以上、むしろ“狭い場所”の方が内海氏にとってより作品の質の純度が上げやすい環境と言える。


このことの一面を示す特徴として、今回の会場で作品が設置されたのが斜の壁面であることは注目に値する。台形の平面プランを持つこのギャラリーは、入り口直後のわずかな導入通路に正対する壁面とそれに直交する右の壁面、そしてその向いに斜に入り口方向に広がる斜の壁面があり、鋭角の角度をもって入り口直後の短い導入通路へ向う短い壁面がある。ここで内海氏が選んだのが斜の壁面であることは恣意的なものではない。この作家は、はっきりと積極的に斜の壁面を嗜好しているのだ。2001年の時限美術計画での展示は床から天井にかけての対角線にパネルを設置したようだし(筆者は未見)、2003年の藍画廊での展示も画廊の対角線にパネルを設置している。壁面長の長さを確保する(一番おおきな壁を求める)、というだけではこの衝迫は説明しきれないだろう。この操作は、単純に言ってしまえば「空間を狭くして作品の占有度を上げる」効果を上げる。若干あきれた話しだが、内海氏はあのような作品であってもそれだけでは「まだ密度が足りない」と思っているのだ。今回の作品も、もっとも壁面長がある壁を選んだ、という理由では、一見「見やすさ」を犠牲にするような(壁同士が鋭角のぶつかり合いをする角付近を見るには苦しい作品設置だ)展示は理解できない。


斜に作品を設置することにより、視覚上の圧縮が行われるのだ。内海氏は観客の視界に作品以外のものが入るのを嫌う。ほとんど一本気なまでの制作は、その生理を埋めるためにこそ要請されている。こういった自らの資質を地盤としながら、今回内海氏は画面内にかなりの色数を導入した。今までも氏の作品内部には複数の色が存在したが、しかし同時にそこでは主調色とも言える色彩のトーンが定められており、おおよそ同系色の幅で作品の色彩が定められていた。部分的に赤や緑が使われても資生堂ギャラリーの作品は「青かった」し、同様に褐色や青があったとしてもMACAギャラリーの作品は「緑」だったと言って間違い無い。今回の作品も、かなりの程度「紫である」と言っていいのだけれども、しかしそこに入り込む他の色彩は、遥かに主張を増し、相互に干渉し対立し混ざり合う。結果として、やや鈍さが全面に出て鮮やかな感覚は後退したが、それがあくまで作家の“複数の色彩の関係”を追う態度であることは明瞭に見てとれる。資生堂から続けて試されている、地の綿布の一部に薄い色彩をかぶせる試みも含め今だこの作家の試行錯誤は安定しないが、それはむしろポジティブに評価されるべきだろう。


内海聖史氏の作品は、それを見る観客を一種の“想像の共同体”へと編成する。それはポリフォニックというよりはユニゾン的であり、複数の、異なる背景や文脈を持つ各観客達をたった一つの方向に向けさせる。その作品の持つ支配力を警戒することは健全だ。だが、いかなる人であれ全ての「想像の共同体」を否定することはできないし、その態度こそ新たな共同体を編成するだろう。単一の共同体への埋没を拒むものにできるのはあくまで複数の共同体を往還することだ。だとしたら、そのどこかに「内海聖史の絵画」を置くことは可能な筈だし、その快楽を知りながら、まったく別の快楽を想起することも可能な筈だ。溺れる必要はない。逆を言えば、そのくらいの視覚の強さと幅がなければ、内海氏の作品は容易に見るものを拘束するだろう。


●内海聖史展