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大辻清司の写真は常に「何かについての写真」であるように見える。それはすなわち、作品についての写真であり、時代を主導する美術ムーブメントについての写真であり、機械や科学についての写真であり、批評についての写真であり、そして写真についての写真でもある。だが、考えてみれば、写真とは、誰が、どのように撮ろうとそもそも「何かについての写真」なのではないだろうか。それは世界の事物を光りによって捉える光学システムとしての写真の不可避の条件であるはずだ。大辻清司は、そのことを正面切って捉えていた写真家なのであり、その作品は「何かについての写真」であることを追求することによって、いつしか写真それ自体として自立するという、静かだが遅れてやってくる力のようなものを感じさせる。既に終わってしまったが、松濤美術館での「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」展を見て感じとれたのはそういう事だ。
簡単に言えば、大辻の写真はそのほとんどが二次的なものだ。初期のオブジェを撮影したもの、前衛作家達の作品や共同作業を撮影したもの、出版物で飛行機や機械、美術作品を撮影したものなどは、もちろんそこに職業写真家としての条件が刻印されているわけだが、やがて自らの写真批評に基づいて写真を撮り、あるいは個人的な写真史を追う写真を撮るといった歩みを見せる大辻は、初期の文章で“「芸術としての写真」を否定する言辞を否定する”という、複雑な回路で写真の価値を宣する点に見られるように、「写真の二次性」について最初から自覚的であり、なおかつそこに積極的なものを見い出しているように見える。写真がMOMAで絵画のように「芸術的に」展示されるようになり、その一方で「真実を記録する写真」がLIFE誌などを飾るような動向と平走しながら、「芸術」に対しても「真実」に対しても“二次的”な態度を取りつつ、まさにその姿勢において写真というものの中核に触れようとする姿勢こそ、ある種の倫理性を感じさせる。
もちろん、1956年「氷紋」のシリーズなどは、言い方によれば写真の純粋な造形表現を求めるものに見える。だが、これに先行する1949年、他のオブジェなどを撮ったものに「いたましき物体」といった表現的なタイトルがついているのに対して、一見抽象的な光りのドローイングにも見える作品が「氷紋」と、モチーフの名前そのままのタイトルとなっていることは注目すべきだ。恐らくこのような思考/指向は、続く飛行機の表面をそれと一見理解できぬまでに拡大して撮影した「航空機」のシリーズ(1957)、また1986年の斎藤義重の展示作品写真へと繋がっていくと思えるが、大辻においては、いわば写真そのものの表現性がたかまるものほど即物的にモチーフの名がキャプションされることは、大辻の写真の二次性に対する積極的な態度が逆説的に現れている。そしてこのような態度は、やはりどうしても写真についての写真、といった所に大辻を不可避的に導くのだろう。
大辻清司のもっとも優れた作品が、このような「写真についての写真」という傾向を持つことははっきりしている。それはすなわち1953年「開けるな」の、壁面に埋め込まれた窓の痕跡は、いわば写真のフレームの反復、絵画におけるフランク・ステラのような意識と見えるし、1968年の「余白のためのショールーム」は、はっきりと“写る”ガラス面に「写らない」平面を仮構したもので、写真を撮った写真を更に撮った「見えぬ意味を見ぬ意味と」にいたっては、その主題がこれ以上ないほどにクリアに示される。ことに後者2つのような仕事は、大辻の視線=見る-見られるといった関係への興味をはっきりとしめしているだろう。僕は上で「写真についての写真」と書いたが、それはむしろ「視線についての視線」と書き直されるべきかもしれない。それは更に「意識についての意識」とも変奏されるだろう。そういう意味で、カタログを執筆している光田由里氏の簡潔なコメントは随所で流石だと思える。
たとえば光田氏は大辻とシュールレアリズムの作家に大きな影響を与えたアジェの関係を指摘している。それは「新宿・夜」や「開けるな」の大辻の仕事とパリを撮ったアジェを繋げるものだが、より重要なのはガラス面に写るものを撮るという点での接点であるように思う。「余白のためのショールーム」に先行する1950年に阿部展也演出で撮られた「オブジェ」にあるガラス面に写る光とその向こうの無機的(オブジェ的)女性像は、はっきりとパリのショーウインドウを撮ったアジェと連結されるだろう。この展覧会に先立つ東京芸大陳列館での「《写真》見えるもの/見えないもの」展のカタログのエッセイで光田氏は榎倉康二と大辻の関係にも触れているが、この点も含めて、大筋で光田氏の言うことは同意できる。僕は以前、光田氏が芸大「《写真》」展のカタログで「私性」という言葉を使うことに僅かな抵抗感をしめしたが(参考:id:eyck:20070608)、確かに今回の展示を見れば、そのような言葉が使用されるのも理解できる*1。
僕が感じるのは、このような視点は、一種のグローバルなものへの抵抗として現れたのではないかという事だ。大辻は1970年の中原佑介の「人間と物質」展の記録写真を撮っているが、その前から、この当時のもっとも美術状況に敏感な環境にいた写真家は、1960年代のアメリカあるいはヨーロッパのコンセプチュアルアートの動向は大なり小なり知っていたと考える方が自然だ。この運動には多数の日本人がアメリカに渡って参加しているし、いわば日本の写真を含めた美術が「グローバル」な同時多発性を生きた最初の経験だっただろう。だが、しかしここで「海を渡った」ものと「海を渡らなかった」ものの間には、決定的な落差があったようにも思う。「海を渡った」ものが、「美術の本場」で「グローバル」な活動を行った時、恐らく極東の島国の内部では、そのことに対する微妙な抵抗が発生したのではないか。例えばもの派の運動に、コンセプチュアルアートの反響を聞かないわけにはいかないが、そこにはある種の「湿り気」がある。榎倉康二の染み、李禹煥の筆跡、成田克彦の木材といったものにある「私性」は、「グローバル」なものに対して「ローカル」な拠点を構える一種の防衛反応にも見える*2。
大辻の仕事も、このような意識をどこかに持っているのかもしれない。文字通り「写真についての写真」である「ひと函の過去」が、個人的な写真史を反復していることも、このような防衛拠点としての個人、とりかえのきかない個人を確認するような仕事にも見える。「写真についての写真」=「視線についての視線」=「意識についての意識」といった構造は、しかし、消して見る/見られるものの安定的な対称関係ではなく、その内部に圧倒的な非対称性を内包しているのではなかったか。「まなざされてはいない」というおそろしさ、「まなざされてはいけない」という抵抗、その双方が刻まれているのが大辻清司の写真であり、それは意識的でないにしても1950年に阿部展也演出で撮られた「オブジェ」の、ガラスの向こうにいる、大辻を「まなざさない」オブジェのような女性に既に現れているように思う。
*1:そもそも、僕は大辻の名前を「《写真》見えるもの/見えないもの」展で初めて知った
*2:これは先のphotographers' galleryでの林道郎氏によるコンセプチュアル・アートと写真についての講座で喚起された思考だ