1995年3月20日

僕は1995年3月20日の朝、午前8時25分頃上野駅にいた。当時職場に行くために日比谷線に乗る必要があって、地下鉄の構内に入った。日比谷線の改札の手前には銀座線の駅があるのだが、そこが混雑していて抜けられない。構内で案内があり、車両故障か何か(記憶が判然としていない)で日比谷線は運転を停止している、みたいな説明があった。迂回しなければいけない。目的地は八丁堀だった。上野から八丁堀に向うにはJRのルートがある。遅刻は確実だが、行かないわけにもいかない。この日は月曜日で、それなりに仕事があることが予想できた。朝の上野は信じられないような混雑をして、時に安全のために駅が入場制限をすることすらあったから、迂回の経験もないではなかった。だから、もちろん普段とは違った朝だったのだけど、慌てることもなかった。JRのホームに戻り、これまた大混雑している京浜東北線に乗って東京駅に向った。もっとも酷い混雑は上野と秋葉原の間だけど、たくさんの人々も特にいつもと変らず無表情だったと思う。東京駅の京葉線ホームは最深部にあって、長い通路を歩かなければならない。しかし列車に乗ってしまえば八丁堀は一駅で、あっさり到着した。八丁堀ホームも深い地下にあり、これまた長い階段とエスカレーターで浅い地下にある改札まで昇った。


ここで奇妙なものを見た。改札正面にあるB2出口に「シャッター」が降りていた。あたりまえだが、普段はそんなものはない。視覚的な違和感に続いて、奇妙な言葉も聞いた。日比谷線八丁堀駅は「封鎖」されています。僕は、映画やテレビではない場面で、「封鎖」という言葉を聞いたことがあっただろうか。ないとも言えないが、この時の「封鎖」という言葉は、その場で明らかに違和感として浮き上がって聞こえた。少なくとも、車両故障で駅が「封鎖」されるというのは変だと思った。改札を出て、次の違和感が重なった。係員の誘導に従って下さい、みたいな言葉が聞こえた。「誘導」という言葉も「封鎖」という言葉と同じように切り取られて聞こえた。目には「誘導」されている「行列」と、「銀色の服を着た消防の人」が写った。僕は「消防の防火服の人」に「誘導」された「行列」に入って、やや長く歩きA2出口へ向った。その間も、何人か駅員でない制服の人を見た。「誘導」されている人々は、皆大人しく、整然と歩いていた。なぜ「封鎖」されているのか、復旧はいつなのか、といった説明はなかったのではないだろうか。あったのかもしれないが、これも記憶がない。


僕が見た範囲では、警察の人に説明を求めたり、大声を出している一般乗客はいなかった。むしろ静かだった。いや、静かだった筈がないと思うのだけど、記憶から音が抜けている。誘導する人の声はあったと思う。なにか自動的に皆が動いていた。B2出口のシャッターを見た時から感じ始めた違和感は明らかに膨らんでいたが言葉にならない感じだった。A2出口が近付くにつれ、違和感はより視覚的な要素として立ち現れ始めた。普段見ない制服の人が増えた。日比谷線の改札の方へ向う通路は人が入れないようになっていたが、消防の人などは忙しそうに出入りはしていた。A2出口階段を昇ると、明らかに雰囲気がおかしくなってきた。そして地上に出たとたん、明瞭に普段と違う風景が見えた。新大橋通りには、何台もの消防車と救急車と警察の車両が止まっていた。グレーの、護送車みたいな車もあった。普通の車は走っていなかった。足下に人がうずくまっていた。それを一瞥する間もなく、後続の人に押し出された。警官が指示だしと交通整理をしていた。驚いて、なんとなく感覚が止まった(という感覚はあった)が、僕は足をとめることはなかった。普段見ない光景の中を、やはり普段と違う感覚で、でも普段通り職場へ向った。一本通りを裏道に入れば、普段と違うことは何もなかった筈だ。このあたりの記憶はない。習慣通り6分くらい歩いた。碁盤状の路地の向こう、築地方面に聖路加病院の建物をみた。


職場に入ると「お、永瀬が来た」みたいなことを言われた。僕の部署は10人だが、普段の半分も人がいなかった。「何かあったんですか」「駅で爆弾が見つかったらしい」といった会話があった。来ている数名の人は、窓際に集まって新大橋通りの方向を見ていた。どうやって来た、と聞かれたので、JRで東京を経由してきたことを説明した。何人かの人が会社に連絡してきた。仕事の状況が判断され、特に忙しくないようなら何人かは休みにしよう、みたいな打ち合わせがされたと思う。幾人かは遅れて出社した。僕は通常通り仕事をこなし始めた。フロアが違う営業部門はそれなりに人数が来ていて、自分の仕事に支障はなかった。しばらくして、出社した人の家族から、心配して電話がかかってくるようになった。その電話から、どうやら駅のトラブルは大きく報道されているらしいことがわかってきた。テレビを見て家族が電話してきて、その電話から僕達は情報を仕入れていた。トラブルは八丁堀だけではないこと、けっこうな数の人が病院に運ばれていることなどが段階的に知れた。なんだか大事なんだと、皆少し興奮しながら話した。僕も「封鎖って言われてびっくりした」とか笑いながら話していた。話しながら仕事はしていた。


お昼に食堂ホールで昼食をとりながらテレビを見た。八丁堀だけでなく、東京の中核部の各所が空撮されていた。そういえば午前中から、上空をヘリコプターが数機飛んでいた。報道の内容は覚えていないが、その空撮の映像はよく覚えている。以降、くり返し流された映像だから、記憶が補強されているかもしれない。同時多発ゲリラ、という言葉がこの時は使われていた。昼食後、僕は自分の席で椅子の背を倒して昼寝をしていると思う。午後も仕事を続行した。僕には誰からも電話がかかってこなくて、皆にからかわれた。「永瀬は愛されて無いんだ」みたいなことを言われて、「誰でもいいから掛けて来てくれ」みたいなことをおどけながら返していた。しばらくしてようやく学生時代の友人が電話をかけてきた。とりついでくれた人が「おまたせ」みたいな事を言ったと思う。僕は電話口で大袈裟に「お前は友達だ」みたいなことを言った。友人はやはり報道を見て気になり電話してきたと言う。自分はなんでもないことを伝えて切った。帰りの地下鉄が使えないことが職場で話題になったが、僕は朝来たルートが生きている、と思ったはずだ。しかし、帰りに京葉線の八丁堀の駅を使った記憶がない。後で報道で知ったが、この日午前7時43分に上野で実行犯を載せた北千住発中目黒行きの日比谷線には、秋葉原サリンが撒かれ、途中駅も含め8名の死者を出した。うち八丁堀駅では1人が亡くなっていた。地下鉄サリン事件の概要は以下。


Wikipedia/地下鉄サリン事件