テレビ放映されたアニメーション版「時をかける少女」は面白かった。この映画は、いわば「時をかける少女」という作品の生産と消費の在り方そのものを写し出している。すなわち、「時をかける少女」の、何度も時間を反復しその内容を修正しつつ「真の時間」を得ようとし、しかしある段階でその不可能性/可能性の限界に触れながら、限界の向う側にあるものを示唆してゆく、という構造を、この映画では原作から実写版の映画、いくつかのリメイク作品、そして今回のアニメーション版自身を産み出した「時をかける少女」という「作品」に対する自己言及として再編成することに成功している。別の言い方をすると、この映画のヒロインは、「時をかける少女」(という作品)そのものだ。このことは、恐らく制作側がはっきり意識していた結果というよりは、どちらかといえば「作品という経験とそこに流れる時間」というものを深く考えた結果もたらされたものに見える。だから、このアニメーション版「時をかける少女」を語ろうとおもえば、そこには「作品という時間/経験とは何か」という問いが欠かせない。


作中、ヒロインは時間を飛び越え過去の任意の時点に戻れる能力を獲得する。その能力を使って、ヒロインは、自分の希望通りに過去を何度でも生き直していく。だが、何度くり返そうと、どこかしらの時点で彼女の意に沿わない出来事が発生する。そして彼女の能力にはあるリミットがあり…と、これ以上のネタばれは控えるが、この映画の基礎的な魅力は「何度も何度も転んでは起き上がる」ヒロインにある。とにかくこのヒロインはよく転ぶ。ここまで爽快にすっ転ぶヒロインというのも貴重だ。そしてもちろん、この事は作品の基軸に深く関わる。何度も自分の希望のイメージをかなえようとしては、どこかしらうまく行かず、再トライしては痛い思いをする「時をかける少女」とは、先述のようにこの主人公に仮託された「時をかける少女という作品」そのものとして見えて来る。そこには原作も実写版も当然含まれるだろう。ヒロインは少しずつ、同じ「時」をあちらこちら修正しては破綻し、また転ぶ。そしてある限界を迎える。


だが、ここで、時間を真に飛び越え、未来への、不確実ではあっても可能性を孕んだ「手紙」として、中世の古典絵画が登場することは注意を払う必要がある。すなわち、ここで扱われているのは映画・アニメーションというカテゴリや、いくつか製作された「時をかける少女」のバリエーションだけに限定されない、「作品」という奇妙な存在と関係を結ぶ人々の「時間/経験」という、より一般的な問題なのではないか。


人は一般に「作品」を何度でもくり返すことができる。音楽、映像、詩・小説、絵画、彫刻、いずれもそうだし、本当に素晴らしいと感じた作品に関してはむしろ反復して経験することの方が自然だろう。無論、演劇やパフォーマンス、ダンス、ライブといったものは完全な再現、反復はありえない。鴻上尚史氏は過去、演劇を「風に記された文字」と表現しているが、厳密に考えれば、作品においてはジャンルに関わらず全て「完全な反復」はない。作品を鑑賞者との関係性で捉えれば、その関係性は反復するたびに変化する。その変化は、場合によっては恣意的に、鑑賞者の一方的な感情や希望に従わせることができるかのようでもある。人はその作品を自らの意に沿うように解釈し、批評し、改めて前とは違うように享受することが可能だ(エゴイスティックに時間をくり返す映画前半のヒロインのように)。ごく自然に「あの作品のあそこはこうすべきだったんだ」といった想像は一般的だろうし、時間が経過すれば、人は自分の都合のいいように記憶を改編してしまうこともある。だが、そこには決して動かせないものもある。これは生産側からも言える。原理的に言えば、作品は何度でも作り変えられる。商業作品であっても、経済ベースで計算が立てばそれは何度でもリメイクされる。


まさに「時をかける少女」とはそういう作品だったといっていい。アニメーション版「時をかける少女」は、この、幾度も生き直す、そしてその都度けして十全に素晴らしいとは言えない形で反復された「時かけもの」の最新版として産まれたのだ。リメイクにおいて、そこではけして「完全」な再制作はありえない。制作側を含めた誰もが満足する作品は不可能だ。むしろ、制作者こそがもっとも深く「完全な作品」から排除されるのではなかったか(映画後半のヒロインを想起)。何度もくり返すことができる「作品」のもたらす時間は、しかし、けしてその都度同じではないし、恣意的な自由を許しもしない。いかにも人の手にかかれば勝手に扱えそうでありながらそうではない。我々は作品のもたらす時間において、常に「その時一回きりの時間」を過ごしているし、その時は不可逆なのだ。セザンヌにおいて、セント・ビクトワール山は何度描こうと「その時一回きりの時間」をもたらしたし、それを見る鑑賞者においても、何枚も描かれたセント・ビクトワール山を見る度ごとに「その時一回きりの時間」を過ごすことになる。作品制作とその受容は一方向ではない。このアニメーション版「時をかける少女」も、その基礎にはまず先行作品の受容がある。実はそこでくり返されているのは、「我々」なのだ。『時間ていうのは不可逆なのね。だから、戻っているのは、あなた』。


このアニメーション版「時をかける少女」に、作品経験と時間の反復可能性/不可能性を見るという点では、東浩紀氏のtxtは優れて示唆的だ(参考:http://www.hirokiazuma.com/archives/000239.html)が、しかし東氏が、それをいわば「ゲーム的」と捉えていること(さらにそれを「人生」に直結していること)には若干の違和感が残る。上述のように、もっと大きく表現作品一般の問題として捉えるべきではないだろうか。端的に言って、この作品はゲームではなくアニメーション映画であり、そもそもの基礎が1983年大林宣彦版の映画「時をかける少女」の“反復”にあることは明らかだ。少なくとも細田監督は映像作品の反復(不)可能性に基づいて作っている、と考えるのが妥当だろうし、作中、大林版のヒロイン(これは原作のヒロインでもあるのだが、ここでは原田知世演ずるキャラクターを想起しておいたほうが正確だ)と連続する「芳山和子」と、古典絵画の修復というキーポイントを考えれば、アニメーション版「時をかける少女」の射程は、むしろゲームという言葉を使わない方が長く設定できる。


全体に丁寧に作られた佳作で、特に舞台になっていると思える東京の東部の情景は雑な実写映画よりは遥かにリアリティを持って撮影されている。荒川の向こうに走る高速道路の高架や、京成線をモデルにしていると思える町中を走る鉄道、商店街の描写は空気感まで感じさせる。そして、そういった舞台設定も含めて、恐らくこの映画は明瞭に、あの「時をかける少女」を見ていたかつての子供/いまの大人を意識している。そこにだけ向けて作られた、と言っているのではない。この新しい「時をかける少女」は、過去に、なんらかの形で「作品」−ここでは広い意味で使っている−に埋没し、何度も繰り替えしそれらに対して時間をさきながら、その時一回きりの出来事を生きたことのある(そしてそれを忘れてもいる)人々に向けて開かれていると思える。あの刻まれた作品=経験=時間は、再帰する形で『未来で待ってる』。