作品を、あるいは展覧会を見る力というのは実際のところ、作品を見る前にかなりの程度試されてしまう。すなわち「何を、いつ見るか」という選択にこそ「見る」ことのフレームがかけられている。「何を」という点では、人はけして全てを見ることができるわけではない、という現実がある。観念的な話しではなく、毎週毎日、あらゆるところで作品は展示/公開されているのであり、しかもその相当な部分が、一度見はぐったらもう一生見る事ができない作品だったりするのだ。小さな画廊で6日しかかけられていない作品に、もう一度出会うチャンスは皆無に近い。そして、そのような膨大な出会い損ねが日々流れ去っていることに痛みを覚えなくなったら、僕は今見ることのできている作品に対してすら緊張感を失うだろう。


ある作品を見るということは、選択であると同時に排除であり、その背後に無数の見ないで済ました作品がある。そしてそれはもちろん、作品を作る事とパラレルな経験だ。無数の作れなかった作品があり、無数の「見せる事」ができなかった作品がある。だから誰かに「見せる事ができた」作品というのはあくまで例外事項なのだ(小さな画廊で6日しかかけられていない作品を「見せる事ができた」という奇跡的事態!)。さらにもう一度反転すれば、特定の作品を見ることが出来ているある状況は、常に例外的な出来事に違いない。


美術を見に行った人は美術を選択しているようでいて同時に選択されてもいる。例えばいかに国立新美術館がアレであったとしても「20世紀美術探検」にひっそり飾られていたシュプレンゲル美術館所蔵のモランディを見る事を選択しなかった人は、少なくとも今の日本の状況下ではかなりの程度美術というものに「選択されなかった」ことになるだろうし、同様に今年一番の目玉展覧会と言われるに決まっているレオナルドの「受胎告知」は、事実上行っても行かなくてもかまわなかった展覧会でしかなく、これに行く事で他の作品との出会いを排除してしまったとしたら、むしろ「排除された自分」に自覚的でなければならない。


いま“絵の具が扱える”数少ない画家、野沢二郎の作品をしっかり目撃したことのある人とそうでない人の間には明瞭な差別が発生してしまうし、VOCA展で小林達也を見逃した人が、いずれ地団駄を踏んで悔しがることになるのは自明なことだ。もちろん、ルーブルもオルセーもオランジュリーもポンピドゥーもプラドもエルミタージュもロンドン・ナショナルギャラリーも大英博物館MOMAもディア・ビーコンも胡宮博物院-台湾も含めて-も見た事がない僕が何をかいわんやではある。


なんとか現場に行ったとして、今見ている作品が、本当に「見えて」いるのか、という疑いを持たずにいられることは楽天的にすぎる。それはすなわち「いつ見るか」という問題なのだと思う。これが読書であれば、話しを通じさせるのが楽だろうか。いかに古典の名著であれ今話題のジャーナリスティックな書物であれ、ふと手にしたタイミングが悪ければ一向に読み進まず、無理にページを繰ったとしてもまるで頭に入らず読んでいるのに「読めない」というのは日常的な出来事だろう。そしてまた逆にかつて一向に読めなかった文章が、ずいぶんと日がたってからあれよあれよと読めてしまう、などということも珍しい話ではない。


読書にセンスというものがあるとすれば、自分が、いつ、いかなる時にどの本を手にするかという選択にこそそれがあらわれるだろうし、そこで我々は本を選択していると同時にある程度本に選択されてもいるのだ。美術にも共通点がある。漠然と見に行って呆然と立ち尽くし、実物を見ているにもかかわらず何か作品に「出会えていない」ような感覚に陥ることはあるのだし、普段通り過ぎるだけの常設作品に、ある時驚くような新鮮さを覚える経験もまたありふれている。もちろん、海外からやってくる美術作品などはいやがおうでも開催される展覧会のチャンスを捕まえるしかないのだけど、それにしても、一定の会期期間中に、自分の中の欲求、というか姿勢みたいなものを整えることは、どうしても必要だと思う(ちなみに本はいつでも欲しくなった時に入手できる、と思っている人がいたらこれまた楽天的だ)。


ということは当然、作品をつくる場面でも「どのような作品を、いつ作るか」という問題は、とても大きい、もっといえば制作においてかなり本質的な事なのだと思う。作品の制作において真面目であることが必ずしも正しくないことは、毎日午前中を必ず絵画制作にあてたコルビジェの絵の悲惨さに現れている。もし作家にセンス、というものがあるとすれば、それはいつ、どのタイミングで、どのような作品を描きはじめるか/描き終えるか、という判断にかかっている。1枚のキャンバスに向った時、それまで積み上げてきた問題意識やテクニックからほんの少し自由になって、ほとんど無限の可能性の中から、すっと簡単に、かつ決定的に正しい1つのタッチを置けるかどうか、という所が課題なのだし、その作品がすーっと波に乗れていけるかどうかも(暗礁に乗り上げた時に回復できるかも)、このタイミングにかかっている。


面倒なのが、がんがんに肩に力を入れていればいいというものでもなければ、やけに呑気に「そのうちそのうち」と楽にかまえてしまってもダメだ、ということで、ある程度コンスタントに制作をしている中で、しかしそれが習慣やルーティーンになるのではない、その都度の新鮮さの反復としてあらわれていなければいけない、と言う事なのだと思う。それは良い食事を作るコツに似ている。誰でも、食事はある程度日常的にとらなければいけない。しかし、それが単なる栄養補給ではない、悦びをもたらすものであるには、確かに自分の料理のテクニックや経済力なんかをふまえながら、しかしそれらの要素から少しだけ離れたインスピレーションが必要で、そのインスピレーションと素材(メディウム)と技術が上手くネットされた時、そこに「良い食事」が産まれるのではないだろうか。


そして、そのように幸福に作品が作られた時、その背後に産まれえなかった作品の影を感じていることは、少なくとも作者自身は自覚しているべきだと思う。あるいは、ある作品を制作しえているならば、その中に産まれえなかった作品の可能性が織り込まれていることを自覚すべきだと思う(作品の「仕上げ」(フィニ)は、おうおうにしてこのようなものを殺してしまう)。作者は制作される作品を選択しているのではない。制作した作品に選択されているのだ。人は、いつでも好きなものを見ることができ、いつでも好きなものを作ることができるのではない。むしろ、まったくその反対の状況にある。その過酷さから逃れることを目的として「真面目」に、無感覚に、単調なくり返しに、見ることと、そして作る事をおとしこんではいけないと思う。