先行する古典的な美術を見る時に、現在の人間である僕が基盤としうるものとはなんだろうか。それは、けして美術史的な知識や時代背景に対する理解などではなくて、もっと単純に、引かれた線の冴えとか、顔料の滲みに含まれた逡巡の面白さとか、組み上げられた構造の複雑さとか、逆にシンプルであるが故の力強さや明解さだとか、色彩の美しさとか、そういうごく当たりまえの、表面に見えるものの魅力にある。同時に、そういう「表面に見えるもの」というのは結構文脈や立場に左右されてしまう。目があれば何でも見えるわけではない、というのは、目(視覚)というのは物凄く制度的なものだからだ。文脈や政治の強さを自覚しないで軽視するものほど、そういうものに簡単に支配されてしまう。僕は作品と対する時(制作の場面でも鑑賞の場面でも)、社会的な文脈とか流通しているイメージとかを極力排していこうとするが、それは、いかにそういうものから自分が自由になれないかを確認することにも繋がる。


言うまでもなく、人は文脈や構造ががっちりと組み上げられた中に産まれてくるのであり、それに支配されている。というだけでなく、それなしでは生きられないのだ。西洋美術が権威(権力)としてあり、美術史が強固に措定されていなければ僕がミケランジェロやレオナルドを知ることもなかったし、その魅力を理解したり、疑問点を設定したりすることも極めて難しい。国内の古典美術を見る時だって、そこに転倒したエキゾチズムが抜き難くある。はっきり言って、ブルーノ・タウトのエッセイがなければ、これ程桂離宮がもてはやされることなどあり得なかっただろう。しかし、同時に、例えそういった事実があるにしても桂離宮はそれとは無関係にある程度尊重されてもきたし(だからこそブルーノ・タウトはきちんと保持されていた桂離宮を見る事ができたわけだ)、一度は歴史から消えたボッティチェリが再浮上したのは、そこに文脈や言説の構造とは無関係な魅力があったからだろう(「歴史の再評価」が常に重要だとは限らないのは、ジョルジュ・ラトゥールみたいなB級の画家がもてはやされたりすることにも現れてはいるが)。


文脈しかないという言い方も、作品それ自体しかない、という言い方にも嘘がある。要するに、そのように簡単に言い切れない現実の中に作品は存在しているのであって、なおかつそのような現実の一部を構成してもいるのが作品なのだ。だから、僕は興味を持った作品があれば、その作品の背景や成立要因や作者のことや技術的な事等も可能なだけ知ろうとするし、本を読んだり人に話しを聞いたりもする。繰り返すが、そういった知識や教養がなければ作品が「わからない」と思っているからではなくて、作品に対して極力自由であるために最低限度の事は知っておきたいと思うのだ。知識や教養は、それ自体から自分を自由にする、つまりある作品を見る時に、無意識に自分の中に埋め込まれている思い込みや前提を疑うことを可能にすると同時に、作品を恣意的に、自分の感覚の追認の道具としてしまうことに対する警戒装置としても利用できる。


知識や教養もなしに「まっさらな心で」作品を見る、というのは、往々にして単なる嘘(前述のように、なんの下地もなくある作品に出会う、なんてことはあり得ない)であるだけでなく、同時に作品から受ける感覚に対する無批判な溺れに対しても無自覚になってしまう。そんな場面では人は自分の感覚だけにしか出会えず、自分から切り離された単独の「作品」に出会えなくなってしまう(ほとんど鏡に写った自己イメージだけを見ている状態になってしまう)。こういう事は、他人の作品を見ている時以上に、自分の作品を見ている時にこそ重大な危機として現れる。他人の作品であれば、いやでもそこに客体としての個物がありうるが、自作を前にした時、一定の訓練をしていないと「自惚れ鏡」を見ているようにしか判断できなくなってくる(だから描き手こそが見る訓練を積まなければならない)。


以前も書いたことと重なるが(参考:id:eyck:20040406#p1)、人は自由であるためにこそ一定の知識と訓練を必要とする。もちろん、本末転倒な知識や教養の自己目的化は警戒すべきだ。パノフスキーに一定の洞察があることは理解できても、どうしても信用しきれないのは、彼の叙述に作品にたいする判断がないからだ。パノフスキーの取り上げる作品を、本人は果たして面白いと思っているのかどうかが、パノフスキーの文章からはわからない。それが様式的に重要だったり、歴史的にエポックメイキングなものだったりする事は、詳細で隙のない叙述から理解できても、その作品がいいのか悪いのかがまったく見えない。そんなことはどうでもいい、というならば、何故パノフスキーは美術作品などを取扱うのだろうか。パノフスキーだけでなく、いわゆる学者の言う事が「正しい」だけ(これも怪しい)の空疎なものに響くことがあるのは、こういう危うくても美術に関わるものにとって本質的な「判断」が見えないからだが、反対に、単純な「わたしはこれが好き(と言う自分が好き)」みたいな退屈さに陥ることも避けたい。最後に全てを振り捨てる場面の為に、僕は多くのものを見なければいけない。