コバヤシ画廊で野沢二郎展。キャンバスに油彩で描かれた絵画が3点展示されている。会場正面には最も大きな幅4メートルもの作品があり、正面向って左手には160cm四方程度のスクエアの作品が、右手には2m程の高さのある縦長の作品が配置されている。いずれも濃い褐色の上に白を混ぜられ水色になったウルトラマリンが不定形な形象をなしている。野沢氏の技法的特色である、歯形に加工したスキージ(シルクスクリーン用の幅の広いゴムべら)で、絵の具を盛っては削り盛っては削りした痕跡が画面中を覆っていて、その表面のマチエールはかなりの凹凸がある。水色は部分的に黄色が混ぜられたような所も見受けられる。前回のコバヤシ画廊での個展(参考:id:eyck:20061010)の時に見られたような具象的なイメージは姿を消している。


今回の野沢氏の作品は不思議な2層をなしている。暗い色彩の上に明るい色彩を置く構造は野沢氏が持続している方法だが(参考:id:eyck:20041012)、過去の明るい部分に使われていた黄色やピンクはそのテクスチャーにおいては下の褐色の層とかなりの程度一体化していた。これは例えば黄色が色相として下層のアンバー系の色と近かったことや、ピンクが染色系の絵の具で画面全体を文字通り「染めて」いたことも原因かもしれないが、それを言うならウルトラマリンもかなり画面を染めやすい色彩であって、ここで見られる2層構造は、組成的なものというよりは野沢氏の絵の具の扱いによるものだと言うべきだろう。白と混ぜられて、明るくなりながらもやや鈍い沈滞した質感を持った青は、どこか鉱物的な肌合いを帯び(塩が結晶したようだ)、明らかに柔らかな土の表情を見せる地の褐色から浮き上がって見える。この分離は、画面上では歯形に加工したスキージによって繰り返し「まぜる」ような動きをみせてゆくタッチの中から現れるもので、まるで「混ぜよう」とする画家の意志に反して、絵の具が物質的に抵抗しているかのようだ。


もちろんそんなことはありえない。水色と褐色は、その顔料の組成がなんであろうが、それを扱う画家が混ぜようとして混ぜてしまえば混濁し単なるグレーになってしまう。にもかかわらずに分離している、その分離の仕方が不思議なのだ。この、一見褐色に馴染ませようと繰り返し盛られては削られているブルーは、しかし結果的には「褐色から分離されるべきもの」として析出された青だ。実験室で混合物に振動を与え続けた結果、鮮やかな物質が表面に分離してきたかのようでもある。このようなマチエールの構築に、野沢二郎という画家の油絵の具の操作力が見てとれる。野沢氏は画面の抵抗感、絵画の質というものを繰り返し絵の具に圧力を加え、押し込め、削り取ることで獲得する。このような動きは上記のように物理的に複数の絵の具を一体化してゆく。それは色調やコントラストのレベルではなく、その触覚性のレベル、テクスチャーが均一になるということだ。しかし今回の作品では野沢氏は、そのような絵の具へのアプローチは一切緩めることなく、同時に2種の絵の具を分離させるというアクロバティックなオペレートをしてみせた。


こういった言い方は多分間違っている。画面を見れば感じられることだが、恐らく野沢氏は、このようなオペレートを“しようと思ってした”のではない。会場正面の最大の作品で、部分的に使われた痕跡のある黄色はいったい何を示しているだろう。黄色は過去、青の代りに野沢氏の作品の明部をなしていた。この時、黄色はその輝きを鈍らせることなく、しかしテクスチャーのレベルでは暗い褐色の層と十分に馴染み連続性を保っていた。その黄色が、今回の作品の褐色と青の「間」に使われていることは注目に価する。つまり、野沢氏は褐色と青を連続させたくて、その間を仲介させようとして黄色を用いたのだ。しかしその試みは成功することなく、黄色の使用は部分的なものにとどまり、青はなお褐色と一体化せず分離した。野沢二郎氏の作品に見られる「不思議さ」はここに現れている。青と褐色は、混ぜてしまえばあっという間に混ざる。ましてや、画家は様々なアプローチで青と褐色を馴染ませようとしている。にもかかわらず「馴染まない」のはなぜなのか?答えは一つしか考えられない。画家は、青と褐色に、どうしても馴染ませられない何かを「感じ」、その「感じた」抵抗をどうにか押さえ込もうとしつつ、しかしその抵抗に最終的に従ったのだ。


何度も言うが、青と褐色を「混ぜる」「馴染ませる」のは簡単なことでしかない。しかし、そこに「馴染ませられない何か」「混ぜてはいけない何か」を感じ取り、そのことを克服しようとしつつ延々と試行錯誤を繰り返し、しかし最終的にその「何か」を解消してしまうことなく、むしろ歴然と浮き出させてしまった、その行程にこそ画家としての野沢二郎氏の、絵の具というものに対する姿勢がある。野沢氏は、絵の具を操作しながら、しかしどうしても自分とは違うものである「絵の具の在り方」に従ってしまう。このような事態は、やろうと思えばいかようにも絵の具を扱うことができるであろう圧倒的な技量の持ち主であればこそ立ち至ってしまう状況なのだろう。


●野沢二郎展