引き続き四谷アートステュディウム「エクスペリメントショー」について。


●菊池正+鶴崎いづみ+外島貴幸の、それぞれが異なったルールに基づいて文章を読み、相互の影響関係を計測/構築していく(みたいなことがパンフに書いてある)作品は、ルールが提示されなかったからか僕には分からなかった。一人は目隠しをしていて、本は持っているが本は見ない(見られない)から、暗記しているものを読み上げているのか聞こえてくる音を拾って言っているのか。口にホースをつけ、そのホースを金魚鉢に繋げて、発声を金魚鉢の中の泡に変換している人は、どのように他の二人の影響を「フィードバック」させているのか。ひとり一見普通に宮沢賢治の「やまなし」を読んでいた人は、時折切迫した口調になっていたが、それはいかなる「ルール」に基づいているのか。観察力不足と言われればそれまでではある。しかし、やはり構造は「説明」される必要はなくても明示されるべきではないかと思う。


●前田真里氏は、大きな四角い紙を拡げ、それを半分に折って三角形を作り、それをまた折ってまた三角形を作る…という作業を延々と繰り替えしていた。一見シンプルなのだけど少し面白かった。この「実験」は最初こそ単調なのだが、その終盤にある種のクライマックスを迎える。徐々に折り畳まれ厚みを増した紙は、どんどん折りにくくなって、累乗的に「紙という物質の抵抗」を露にし始める。それを前田氏は足と体重を使ってなんとか押さえ込んでいくのだけど、最後のは座ぶとんのような厚みをもった「三角形」は、それ以上折り込むのが不可能な程になっていく。やってみれば分かる筈だが、これは最初にかなり丁寧に三角を折り、頂点と頂点を合わせておかないとその矛盾が後半に増幅されてくる。遂行するのに意外な丁寧さが要求される筈だ。三角形という概念を現実に作る時に生まれるひび割れが即物的に提示される。そして、この隅で行われていた「淡々とした格闘」が、中央で行われていた中井悠+高嶋晋一の実験と微妙な干渉をおこしていて、それが面白かった。


●中井悠+高嶋晋一は4人のパフォーマーが、会場中央の四角い平面上を各個に様々に動きまわる。ジョン・ケージにおけるメタフレームを批判的に参照している。「ひとつのメタフレームに複数のシステムが位置付けられるのではなく、複数のシステムのそれぞれが個別のフレームとして互いを読解しあう状況を組織する可能性を探る」とパンフにあるが、まさに彼等が批判している「ひとつのメタフレームに複数のシステムが位置付けられる」ものになってしまっていたのではないか。個々のパフォーマーは、独自の行動原理を持ち床の上を移動するが、その時相互の存在はかならず影響する(ぶつかりそうになるのをぎりぎりでさける、あるいは少しだけぶつかってみせる、近付いて来たら離れる、離れていたら近付く、まったく周囲を無視して走るetc.)。そういった内実がそれなりに複雑に組まれる程、「体育館の床」という基底材とか、中央に空けられた四角いフィールドとか、そういう前提事項が強く浮き上がっていた。そういう意味では同時に前田真里氏の「実験」が行われていたのは幸いしていて、異なる位相で独立した行為をしている前田氏を4人のパフォーマーは意識しないわけにはいかず(この前田氏にだけは4人のパフォーマーはぶつからないように常に配慮しなければならないし、前田氏もこのパフォーマンスを意識していただろう)、そこにこそ「複数のシステムのそれぞれが個別のフレームとして互いを読解しあう状況」があったように思う。そこまで繰り込んだコンセプトだった、とは思えないので、その意味でも「エクスペリメントショー」というメタフレームに補助されていたのではないだろうか。


●橋本聡氏は、会場に白い布をしきつめた上でパフォーマンスした。目隠しをして、様々な古典絵画の写っていたスクリーンが消え暗転し、正面舞台の出入り口に消え、出て来る。何かコードのようなものを引きずっている。大きな鞄と、着込んだ服のポケットに膨大ながらくたが詰め込まれていて、それが橋本氏があるくごとに床に次々に散乱する。観客に物を渡し、話しかける。携帯電話を渡し、自分の手に書かれた番号に電話をかけるように依頼する。電話がかかると話す。四谷の駅からこの会場までの道順を説明している。これを繰り返す。不審なほど橋本氏からは物が落ち続ける。まるで体全体がドラえもんの四次元ポケットみたいになっている。僕にはこのパフォーマンスの、作品としての構造は分からない。理屈をつけようとすればいくらでもつきそうだが、ここは「わからない」というのがもっとも正確だと思う。この「わからない」は菊池正+鶴崎いづみ+外島貴幸三氏の「わからない」とは違う、積極的な「わからない」だ。そこには奇妙な質のような手触りがある。ただ、その「手触り」のかなりの部分は橋本氏の「人間性」のようなものかもしれない。だとすれば、最終的に僕はこのパフォーマンスに否定的になる。


●昨日少し書いた、石岡良治氏のプレゼンテーション。「機械/装置/ファブリック」と題された講義形式で、途中で時間が足りなくなって打ち切られたため評価も記述もできない。ただ、その失敗の在り方に論理というもののの過剰性が図らずも溢れ出ていて、そういう意味では面白かった。デュシャン、あるいはその参照項としてのレーモン・ルセール、ミッシェル・カルージュ「独身者の機械」、またはティンゲリーといったキーワードが出ただけで強制終了だったが(爆弾エラーメッセージが出た昔のMacみたい)、これはこれで機会を改めて時間をとり、じっくり展開してみて欲しいと個人的に思う。webで必要な画像・動画を埋め込んだドキュメントを公開してくれればとおもうのだけれど。


●松井茂氏の、純粋詩に関するエッセイの朗読、および純粋詩のプロジェクターによる映写(原稿用紙に純粋詩が刻々と書かれていく)、さらに会場を原稿を持って一定の規則で歩く複数のパフォーマー等による「詩の実践」。まったくこの分野に無知なので、素朴に松井氏の朗読していたテキストの意味内容に関する事しか言えないが、詩を方法的に展開すると言う時、その方法の任意性が問題になるように思う。松井氏が依拠するとしたのが、日本語における詩の「発生時」、古代神謡というのが、いかにも危険に見える。柄谷行人が「近代日本文学の起源」に関するエッセイで“起源への遡行批判”をしているが、松井氏が無根拠であるが故の根拠を神なき現代における神謡というフィクションに求めても、その形式性はもちろん一切確実性を担保されない。だとすれば、恐らく松井氏がもっとも否定的に捉えているだろう偶成詩(いきあたりばったりの詩)に、松井氏の方法詩はどこかで近似してくるのではないだろうか。


平倉圭氏の、ストローブ=ユイレルーブル美術館訪問」で見られるヴェロネーゼの絵画における部分/全体の表れ方の分析は、流石に15分という短時間では十分な展開を見たとは言い難い。ヴェロネーゼ「カナの婚宴」の、多くの人物の顔を一つずつ加工して、バラバラな方向性を持つ人物群をキリストの方向へ統一してみせたりする事で「カナの婚宴」の構造を浮かび上がらせる、というのはあまり上手く行っていない気がした。ただ、コレッジョ等の絵画の部分/全体と比較して「カナの婚宴」との差を見せる所はかなり説得的だったと思う。いずれにせよ、「カナの婚宴」という絵画に直接アプローチするのではなく、ストローブ=ユイレの映画を通じて現れた絵画、という複雑な問題を扱っているので、この2つのレベルの「話し分け」は、語る方も聞く方もかなりの集中力を必要とするだろう。岡崎乾二郎氏の質問もさわりで終わっていたので、四谷アートステュディウムは「平倉day」を1日作ってこの「実験」を再展開すべきと思う。


岡崎乾二郎氏の、メルツェルのチェスプレーヤー(自動チェス機械)と、その仕組みを暴いたポーの論理(中に人が入っている)を図示しながらしかしそのポーの論理に疑問を提示し(ここまでが「刷り込み」になっている)、実際に設置した机と相互応答するようなパフォーマンスをした後机の中に人はいないことを見せて、フレーム(というか思い込み)の作る連続性という虚構とその断面を見せるような「実験」は、やや「面白すぎる」、つまりエンターテイメントとして良くできすぎていて、ちょっと俗っぽくなっていたように思う。岡崎氏がパンフレットで言っていた「特殊が普遍とつながる自明な関係をひとたび解体し、また新たに結び付けなければならない」というプロセスを「演じて見せてしまう」のではダメな筈で、そのような事態を実際に引き起こしてみなければならない筈だ。見て、感心して、なるほど、で終わってしまうのでは物足りないし、「実験」にはなりきっていないと思える。


カール・ストーン氏の、8チャンネルのスピーカーから個別にライブ入力のサウンドを発生させ、その音の作る複雑な「位置感覚の関係」によって、バーチャルでありながらとても身体的にリアルな「空間」を現出させる作品は、完成度が高くて驚いた。まるで音による仮想的な建築とでもいえそうなものなのだが、その空間は知覚上ではとてもクリアで、もはやバーチャルとは言えない強度を保っていたと思う。音楽というよりは、彫刻家や建築家が体験すべきものだったように感じた。本来空間というのはこのくらい抽象的で複雑で揺らめくように変化しながらしかし「強さ」を持っているべきもので、それが実際にマテリアルを使って物理的に造形されてしまうと、そのような複雑さは往々にして即物的なものになってしまう(伊東豊雄とかそんな感じがある)。大掛かりな装置を組まずに、ざっくりとしたスピーカーの配置でこのような一種のビジョンを形成してしまうカール・ストーン氏という人は(はずかしながら僕はこの時まで知らなかったのだけど)すごい力量をもった人だと思った。


もちろん三輪真弘氏のプログラムを見ていないのでこれで全体の印象を語るのは片手落ちなのだけど、率直に言ってトータルが「岡崎っぽすぎる」。複数の独立した思考が個別にありながら相互に関係してポリフォニックな状況を作る、という概念が一つの方向やテイストで組織されすぎてしまって、少し離れて見るといまひとつポリフォニックではない、というか時としてあからさまにユニゾン的に見える。「四谷アートステュディウムの文化祭」だったのだと帰宅しつつ思ったのだけど、だとすればそこに見られた一種の幼さはいたしかたないのかもしれない。このように撒かれた種が実際に自立して(具体的に言えば岡崎乾二郎抜きで)繁茂していくかどうかは、自己批評能力のようなものが必要な気がする。以前から思っていたのだけれど、岡崎乾二郎という人は小学校とか中学校とかで先生をやるのがいいのではないだろうか。初等教育にコミットした方が遥かに「革命的」だと思える。「エクスペリメントショー」は、ありうべき可能性としてあった「横浜トリエンナーレ2006」という連想も働いた(参考:id:eyck:20051230)。川俣正氏が構想した横浜トリエンナーレ学校が機能すれば、このような形態もありえたのではないか。横浜トリエンナーレの総合ディレクターをやる岡崎乾二郎というのは実現できないだろうか。要するに、そのほうがより「現実」に働きかける(「革命」の可能性を確保できる)広さや解放性/開放性が得られると思う。