ときどき自分が作品経験を絶対化するような立場に立っているかのように感じることがある(自意識過剰なのだろうか)。美術に対して何かを言うとき、対象を実際に見た事が/作った事がなければ語ってはいけないわけではもちろんない。そんな「縛り」があったら、ひとはほとんど何も美術について語ることができなくなる。僕が例えばモネに対して何かを言う時、そこでは1つの作品について語っているようであっても、確実にどこかで他の作品を脳裏に置いているものだし、そのような想起されている作品には、見た事がない作品が多数含まれている(もっと言えば、他の多くの作品も必ず想起されている)。図版で、映像で見た作品を排除することなどできないし、そもそも人は一般にメディアを通じて「絵画」や「絵画史」を知るしかない。そういったものの媒介なしに、人は「絵画」という概念を獲得できないし、概念がなければそもそも人は美術館に出かけることもしない。


僕はここで経験主義か観念主義か、なんて話しがしたいのではない。美術の現場において事態はそんな単純な二元論より遥かに複雑な織物として組織されている。ただ、僕がこのblogでもし経験至上主義みたいに受け取られかねない言い方をしたことがあったとしたら(たぶんあるのだが)、それには相応の理由と言うのがあって、それは美術に関わるあらゆる言説(美術史、美術批評、ジャーナリズムからweb上のtxtまで)が、いくらなんでも「作品を見る」ということを一切しなくて当たり前、みたいになっていることに苛立つからだと思う。これはつくづく不思議な話しで、ヴァールブルグ学派の安易な受容がいけないいのかとか思ったこともあるけど、最近は到底そんなレベルの話ではなくて、単にみんな怠け者でおっくうなだけだったんじゃないか、と考えるようになってきた。べつにどこで誰がとは言わないが、もう見てもいないのに作品について書くことが「あえて」とか「わざと」とかいう姿勢すらなくても無抵抗に恥じらいなくやれてしまう人というのが結構な数いる。そして読み手もそのことに違和感を感じていない風ですらある。それはちょっと、と待ったをかけたくなっているのは事実だ。


例えば映画について何かを言おうとする人々は、無言の内に自分の映画経験というものをバックグラウンドにおいているものだし、そうでない発言はあっさり軽蔑され差別されたりする。こういう、いわゆるシネフィル的な世界というのはそれなりに問題視もされるし、だからこそ「あえて」映画経験の“薄さ”に基づいて何かを言うことも批評的機能を果たすだろう。だがそれはもちろん「あえて」という留保付きだからこそ許される筈だ。第一、バックグラウンドがあろうと無かろうと、ある映画作品について語るなら少なくともその作品はなんらかの形で見ているのが前提に決まっている。今の美術の状況というのは、驚くなかれ対象の作品をまったく見ていなくて、どころか相応に精度のある複製・画集すら見ず、webの荒い画像や雑誌のカット程度を並べて何かを言えてしまうという、ぞっとするような状態なのだ。酷いのになると「自分は見ていなくて人から伝え聞いた話なのだが」という書き出しが平然とまかりとおってしまう事すらある。作り手としてこんな環境ほど恐いものはない。少しでも想像してみれば分かる。自分の作品が、見てもいない人から批判されたらどんな感情になるか。感情の問題だけではない。そんな批判が批評家やジャーナリストの手で行われれば、そしてそれが既成のメディアにのり相応の「信用」を纏ってしまったら。


救いがないことに、この状況は現在も進行している。小説についてでもいい。音楽についてでもいい。作品について何らかの発言をするならば、その作品を経験していることはわざわざ強調するまでもない前提であるだろうし、ましてやプロフェクショナルなら、そのジャンルに関する、一定以上の経験の厚みというのは求められるものだろう。ところが、美術だけが例外になっている。なにか現代思想社会学精神分析のタームさえ適当に知っていれば抑圧なくモノが言えてしまって、それがきちんとパッケージされ流通してしまえば「商品」になってしまう。こういう所では、多少反動的だろうが何だろうが、それこそ「あえて」作品を見るということを特権化した表現をしたくなるというのが正直なところだ。当たり前だが、そんな貧しい理由で僕は作品を見るのではないし作るのでもない。優れた作品を見る事は「美術状況」とは一切無関係に素晴らしく刺激的なものなのだし、少しでもそういう刺激をこめることをしたいと思って行う制作も、原則的に面白くてやっているに過ぎない。


もし誤解されるのであれば、僕は作品経験至上主義なのではなく、作品至上主義なのだと思われたい。所詮「経験」というものは自分に属するもので「作品経験至上主義」というのは突き詰めてしまえば「作品」を排除する。残るのは経験と言う名のつまらない自己だけで、そんなものに亀裂を入れるものが「作品」なのだとすれば、僕はどこまでいっても「経験」ではなく「作品」を擁護したい。優れた作品の前では経験も観念も下らないものにしか思えない(というか、そんなものは消え去ってしまう)。こんなことを関西からの帰りの新幹線でぼんやり考えていて、なぜならそこで見た作品のいくつかは僕の経験などあっさりひっくり返してしまうものだったからなのだけど、そのことについて書く前に、ちょっとこんなエントリを上げたくなった。