宇治の平等院鳳凰堂は、やはりというかなんというか、「美」でしかないものだと思う。「真」あるいは「善」というものが存在しない。これが法隆寺と同じ「寺院」にカテゴライズされる事がぼくには了解できないのだが、しかし、では建築としてどのようにジャンル分けできるかと言えば、どこにも当てはまるものがない。東大寺南大門のように構造がそのまま装飾になっている、というのではない。構造が、構造という側面と装飾という側面の二重性を持っているのではなく、いわば自立した装飾体が平等院鳳凰堂という存在になっているのだと思う。おそろしく繊細な組木細工が、そのまま大きくなって建築的スケールを獲得したと言い換えてもいい。「見られること」を意識した造形は映画的で、実体がそこにあるにもかかわらずどこまでいってもイリュージョンにしか見えない。思わず感動してしまい、その感動の強さに思考が停止してしまう。そしてその感動は、どこまでいっても感覚にだけ訴えるものなので、どんなに時間をかけても言葉を生み出さない。ただ、いつまでも感動の中にひたっているしかない。


鳳凰堂は言うまでもなく正面性が強い。シンメトリーの構造は定朝の阿弥陀如来座像を納めた中堂と、その左右にある翼廊、背後にある尾廊の4つのパーツからなるが、鳳凰堂に最も特徴的な翼廊には、なんの機能もない。それはたんに「美しく見えるためだけに」付け足されたものだ(翼廊を取り除いた姿を想像せよ)。実際に建物をみてみると、この翼廊のあまりの無意味さに驚く。等間隔の柱に屋根をかけただけの翼廊は、その意外なくらいにシンプルな作りが、みようによっては芝居の書き割りに見えてくる。中堂へのアクセスのためにあると言えばそうなのだが、しかしその「アクセス」自体が幻想の一行程であるようにあるのが翼廊で、そこには「阿弥陀如来座像の所まで行く」という「実質」が極小まで切り詰められる。書き割りというよりは歌舞伎の花道というべきなのだろう。そして、リアルな中堂へのアクセスは、背後にひっそりと隠された、舞台裏そのものの尾廊に負わされている。側面からこの庭に入ってきたものは、ぐるりと鳳凰堂の前だけを見ることになる。宇治川と庭池が隔てられていなかったという創建当初はもっとその「表だけ見る」というのがはっきりしていただろう。舟から、あるいは対岸から、鳳凰堂は尾廊の存在を隠蔽したまま中堂と翼廊からなる「浄土のイメージ」を現前させていたのだ。


鳳凰堂において尾廊とは隠された内臓だと言っていい。「浄土のイメージ」を体現した中堂と翼廊という「メディア的身体」を維持し続けるための食道/消化/排泄器官だ。尾廊は食べ嘔吐する口であり、消化・吸収するための胃や腸であり、排泄するための肛門だ。人々に欲望され嫉妬し続けられる、メディアの中の完全に人工的に仕上げられた「美しい」男女の身体と同じように鳳凰堂はある。そのようなメディア的なボディが、メディア=スクリーンの背後でどのように排泄し嘔吐しているかはけして分からないように、鳳凰堂の尾廊は日の当たらない暗所で抑圧されながら中堂と翼廊の基底材としてある。「花道」の翼廊が、壁が無く吹き抜け清々とした、あけひろげな作りであることと対照的に、尾廊は土壁で閉ざされ囲い込まれている。まるで乾いたへその緒のように、完璧に近い鳳凰堂に取り残された、奇妙な部分が尾廊で、いったいなぜこのようなものを平等院の創建者が残したのか(なくそうと思えば、なくすこともできた、あるいはもっとソフィスケートさせることも可能だった筈だ)。平等院の背後から、まじまじとこの尾廊を観察すれば観察する程、むしろ意図的なものすら感じるのだが、いずれにせよ、鳳凰堂のリアルはここにしかない−そう言いたくなる直前で、まったく逆の状況が見えてくる。


イメージでしか無いメディア的イリュージョンこそがリアルである/食べ、吐き、排泄する身体ではなく、磨きあげられ、調整され、一切傷跡のないCG的身体、見られることに特化した欲望の幻想としての身体こそが「リアル」である、そんなビジョンが恐らく平安期には存在したのだ。そうでなければ鳳凰堂のこの達成は了解できない。つまり、実際に機能し、仏教の論理をそのまま建造物の論理としていたような寺院(メディア)が一切無効になり、自堕落なまでに「美」の欲望にだけ支えられた、空虚なサーフェイスの、その空虚さこそが唯一効果的と信じられる美的ニヒリズムの世界があったのだ。仏教の論理が、哲学が、世界観が、そこでの実践が意味あるものと信じられているステージでの寺院では、鳳凰堂はまったくない。鳳凰堂とは徹底してイメージであり、ビジュアルであり、それを成り立たせるためのエフェクトだけが純化されていて、そこには一切のコンセプトがない。違う言い方をすれば、理念的コンセプトをかけらも持たず「美的」でだけあろうとする意志そのものをコンセプトとするようなものなのだ。仏教という海外の抽象的ロジックを日本に導入するために、メカニカルなまでに構造的な法隆寺とはまったく異なった寺院が平等院鳳凰堂だと言える。


鳳凰堂には一切倫理性だけは持つまいという突き詰められた姿勢によって逆説的にある種の倫理性が出現している。ここには磨きあげられた絶望のようなものがある。法隆寺の原形(若草伽藍)が建てられ、仏教がもたらされてから500年、恐らくそこに一切の「救済」はありえないことを、栄華を極めた藤原氏はその栄華の内に感じ取っていたのではないか。藤原氏絶頂の中にいた道長の別荘を引き継いだ子・頼通が別荘を寺に改めたのが平等院だが、権力を一手にしながら自らが立てた法成寺に没入し、そこで僧侶に囲まれながら死んだ父・道長を見ていた頼通は、もはや父のようには仏教を信じていなかったとしか思えない。現世的救済を求めた飛鳥-平安前期の寺院に対して、彼岸/浄土的救済を求めたのが平等院と言われるが、そんな解釈には違和感がある。鳳凰堂は、末法思想の世に浄土をリテラルに現世に建設するという、冷静に考えれば破綻した動機で建てられている。この「浄土」には、教えも、徳も、教典の論理性も何も無い。単に「美しい」という“感性”だけが厳密に実現されていて、仏教はその「美」を構成するためのよりしろでしかない。


鳳凰堂は周囲から見ていれば痴呆的なまでに純化された「美」としてある。しかし、隠された内臓としての尾廊を自らの背後に持ち、鳳凰堂の内部から浄土庭園を挟んで外部を見た時、そこに見えるのは救済も浄土もありえない現世しかない。今は剥落しきった中堂の壁画が鮮やかだった時代なら、その落差はより一層際立っただろう。その現世の人々から欲望の視線を一身に浴びつつ、見られている鳳凰堂の身体が「美しい」という言葉を放つとしたら、そこであらわれる「美」というのは、かなりの程度恐いものだと思える。