■
フィレンツェを歩いていて驚くのは、あまりに狭い地域にとんでもない傑作が集積していることだ。しかもそれらは1400年代から1600年はじめくらいのほぼ200年弱の短い期間に連続して生み出されている。異常な時代、異常な場所、と言えるのだけど、まったく反転した言い方をすることも可能だ。すなわち、西欧で芸術というのは、1400年代から1600年初頭にフィレンツェで生み出された絵画・彫刻・建築などを頂点として評価する、そういう体系によって構成されているのだ。こういう言い方をすると、まったく違う評価基準を設定することが選択的に可能だ、ともとれる。事実、そのようなオルタナティブな歴史観というのは社会学的な視点からも再三提出もされているだろう。モダニズムの芸術運動も、そのような側面を持っている。しかし、にもかかわらず、そのような体系は、再帰的に強化されているのではないか。いずれにせよ、このような「基準」は、思う程選択可能なわけではない、というより、恐らく西欧というのはこのような体系が圧倒的な権力としてあるのだ。グリーンバーグが来日した時、「あなたがポロックを見い出した」と言われて「いや、マチスが評価されるような社会ではポロックはいずれ評価されたのだ」と答えたという逸話は、このような体系、このような基準の、個人や「見方」ではいかんともしがたい不動性をしめしている。
日本でそのような体系はあっただろうか。狭義にはない。日本にあるのはどちらかといえば「流れ」、海の向こうからやって来る波に洗われ続ける浜辺(岡倉天心)の痕跡とその受容の終わらない「流れ」だ。事実、日本の古典はほぼ有史全体を通じて散在している。時間軸の一点に頂点があったり、地域に特異点があったりはしない。首都としての歴史が長い近畿圏は確かに文化財の宝庫だが、この「近畿圏」が、瀬戸内海まで含めて意外に相当な広範囲にわたっていることは実際に足を運んでみればわかる。言う間でもなく近世以降は関東にも範囲が広がるし、奥州、北陸、九州にも独自の文化圏があり、沖縄・北海道はまた独自の芸術を持っていた。中国が繰り返される王朝の打倒と成立の歴史の中で遺物を残せず、むしろそれが「漂着」しつづけた日本の文物にこそ中国(アジア)文化が堆積しているという岡倉の言い分は怪しいものだが、いずれにせよ決定的な破壊もピークもなく、ひたすら「流れ」の上に浮いたり沈んだりする、その文脈の蛇行が続いているのは確かだろう。本居宣長的「自然」、成り成りて成るやまとごころ、と言っていいのかは微妙だが(むしろ本居宣長のような徹底性は、非日本的なのではないか)、西欧的な微動だにしない基準、というのは設定できない(ただ、この「流れ」の存在が西欧とは異なった水準でけっして崩れない強固なものでもあるのだけど)。
それでもなお、基準値となりうる点というのを定めることは、恐らく不毛だ。その度に恣意的に基準点が設定され、それに対する批判/反批判が新たな基準をもうける。増大した基準はもはや基準ではなく、いつのまにかヨーロッパ的体系を模倣した基準の群れは「日本的」流れに同一化してしまう。白井晟一が「弥生ではなく縄文である」とし、辻惟雄が奇想の系譜を説き、橋本治が俵屋宗達を日本絵画の頂点とする。“まともな美術の正史がない”(椹木野衣)まま、このような、いくらでも変更可能な基準点だけが存在する。そこでの基準点とは既に限り無く「趣味」に近いものだ。趣味であれば、それこそ幾らでも設定可能になる。だが、ここで注意すべきなのは、個人の趣味の堆積が「流れ」を形成しているわけではない、ということだ。むしろ、明瞭な基準の掴めない、漠然とした「流れ」こそが、個人の趣味を形成し支配している。その「流れ」は、適度に様々な「趣味」を分布させ、相互に批判/承認させ、そこでの批判/承認の明滅の広がりこそが「流れ」を強化し持続させてゆく、そのような構造を持っているように思える。この「流れ」は、いつともしれない開始時点から、一度もせき止められたり断ち切られたりしたことがない。そのような試みはなされたことがあったのかもしれないが、いずれ増水する水位に飲み込まれ決壊させられた。そして、何事もなかったように繰り返し押し寄せる「波」を吸収していく。
こういう事を恐らくもっとも的確に、かつニヒリスティックに捉えていたのが小林秀雄で、思えばあの骨董趣味というのは、どんな美術史家や美術批評家より遥かに徹底した、日本美術に対する現状認識の現れだったのではないだろうか。「科学を除いてすべての人間の思想は文学に過ぎぬ(様々なる意匠)」という言葉を「文学を除いてすべての日本人の芸術は骨董に過ぎぬ」と変奏してみれば、痛烈きわまりない。そして実際、小林は骨董に耽溺してしまうのだ。言うだけだったらまだしも、そこにベタに入り込んで行く、そのどこか暗い情熱は何なのか。「鑑賞するもの」が美術で「いじるもの」を骨董とするという分別は、小林にとって西欧の芸術は「鑑賞するもの」(手がとどかないもの)、日本の美術は「いじるもの」(批評がないもの)なのだという認識に繋がる。こういう小林を簡単に批判することはできない。実際、日本の古典美術に対する時、「趣味」以外の評価軸というものを設定するのは容易ではないのだ。岡倉天心は、その恐るべき博識、しかも日本国内はもちろん、中国から欧米からほとんど実際に赴いて実物をみつくした上での博識(言う間でも無く、岡倉は単なる経験主義者ではない。青年期のうちに論語からヨーロッパ哲学まで読み込んだうえで、世界中の作品を見ているのだ)を元に、世界と言う編み目の交点として日本美術を見るという驚異的な展開をしてみせたが、僕の知る範囲で小林的ニヒリズムに抗しえるのは、ほとんど岡倉のこのウルトラな態度以外にない。
そういう意味で、荒川修作という人は確かに特異だ。この人は過去の歴史というものにまったく興味を示さない。あまりに過去に興味がなくて、自分の卒業した小学校を取り違えてしまう程だ。その態度に「自然」なものがまったくない。いわば徹底的に人工的な存在こそが荒川修作なのかもしれないが、それは恐らく、日本的でもヨーロッパ的でもない。これはまだ憶測なのだけど、いわば荒川はアメリカ的、しかももしかしたらどっちかといえばニューヨークというよりは西海岸的な在り方なのではないだろうか。荒川の経歴を見れば基本的にニューヨークなわけだけど、その作品の展開を見る限りどうしてもロスアンジェルスな感触がある。砂漠の中に近代テクノロジーによって一から作られた人工都市、そしてそこではなぜかスピリチュアルなイメージが散乱している。僕はけして荒川を小林や岡倉と同列では考えないが(なにしろ荒川はあくまで制作者なのだ)、荒川をとても可能性のある人だと見たくなる気持ちは理解できる。しかし、なぜかそこでは荒川のアメリカ性が隠れている。それはなぜなのだろう。