鈴木了二氏の金刀比羅宮プロジェクトが、一切のクラフト、つまり様々な“出来事”を抹消してビジュアルだけを滑らかに仕上げるという映像的建築とまったく対極のものであることは、長い金刀比羅宮の階段を上りつめたものには説明の必要がないだろう。そこあるのは様々なレベルでの「エッジ」だ。山の斜面を均すことなく切開し、鉄と石の擁壁を霊峰の中腹に突き刺して(絶対垂直)、その上にやはり鉄板を引いてプラットフォーム(絶対水平)とした暴力的風景は、縫合の痕跡がむき出しになった手術痕のようだ。ブラックジャックの顔、と言っては誤解を産むだろう。ロダンにおける、人体彫刻にはっきりと残された鋳造の接合線というべきか。ようするにそこには“出来事”が溢れている。厳しい高低の落差が、伝統的木造社殿と鉄・ガラス・コンクリートの近代建築の落差が、条件と現実の落差が、実現可能性と不可能性の落差が、信仰と無信仰の落差が均されることなくそのまま可視化されている。この落差が、今にもバランスを失い瓦解してしまいそうになりながら(高い所が苦手な私にとって、この空間は生理的におそろしすぎる)、しかしある1点で拮抗しその張力で宙空に浮いている。


納まりの良さがここにはほとんど見当たらない。というよりは、「納まり」というものを放擲した作業がある。周囲と建築をなだらかに連続させ、環境との調和を計るという側面が鈴木氏の仕事には希薄だ。そもそも「建築」というものに環境との調和などありうるのか、それはいかに化粧し隠蔽されようと、あくまで「自然」に対する徹底的な人工性でしかないのではないか、というメッセージが見られるのが鈴木氏の金刀比羅宮プロジェクトであって、それはもしかすると建築家自身の意図を超えた攻撃性を孕んでいるのかもしれない。いずれにせよ、室伏次郎氏が「埋め込まれた建築」と言いはじめた頃の「埋め込み」という言葉のインパクトは現在は薄められ失われた。建築というものの反自然性を糊塗するかのような「環境との調和」という虚構的プロパガンダはここ10年程でとっくに賞味起源が切れた筈なのだが、いまだに口当たりよく使われている。が、金刀比羅宮プロジェクトを見るとそんな状況が不思議に思えてくる。もちろん、金刀比羅宮プロジェクトは「物質試行」を続けてきた鈴木氏のひとりよがりなプランではない。思えば不思議なほど抽象的(なにしろそこには見事な程偶像表現が皆無なのだ)で、伝統と言う言葉が実は似つかわしく無い神道・神社という形式に含まれる反自然性、土と木に打ち込まれた金属(水銀なども含まれるだろう)の響きと照応し、掘り返したのが金刀比羅宮プロジェクトと思える。


鈴木氏の仕事の周りに配されることで、古びた絵馬殿や旭社ですらその反自然性・マテリアル性が浮かび上がる。鈴木氏が手がけたのはあくまで部分的なものだが、その部分によって金刀比羅宮全体が再構成/再解釈されている(オセロで隅が押さえられたとたんに盤面が一気に反転するかのようだ)。土木工事の途中で放置されたような中庭、安定した基底材であるべき「絶対水平」にわざわざ切込まれたひび割れのようなスリット(「絶対水平」下にぽっかり開けられた社務所etc.の空間の明かり取りだ)、崖に落ちてゆきそうになる、仮設的な細い階段・キャットウオーク。あちこちがガタガタと不連続で、突き出したり折れ曲がったりしており、セラの彫刻と見まごうようなスチールは表面が保護もされず赤い酸化跡を吹き出させている。ここにあるのはエフェクトではなくプロセスであり、グラフィックではなくオブジェクトであり、イメージではなくプログラムだ。つまり思考そのものだ。けして表層に隠されたインフラがこれみよがしに暴露されているのではない。そういった表層/インフラという二重性が排され、構造がそのまま表面であり、表面がそのまま構造であるかのような作りがされているのが金刀比羅宮プロジェクトではないか。


鈴木了二氏の金刀比羅宮プロジェクトは端的に言って「こわい」。そしてそのこわさは、いわば鈴木氏の建築の思考/試行の痕跡がそのままむき出しになっているこわさかもしれない、と思えるのは、金刀比羅宮プロジェクトの進行の過程がメモされつづけた手帳をそのまま書籍化した(本当に手帳がそのままに近い形で印刷されている)「July2001〜May2004 EXPERIENCE IN MATERIAL NO.47 Project Konpira」という、これまた異形の書物を読んだ(見た)からかもしれない。なんというか、見ようによってはめちゃくちゃな本なのだけど、エスキスノート、と言うより他に無い鈴木氏のメモの集積をみていると、このような思考の断続性が、重苦しく体系化されたり軽薄にパッケージされたりすることなく、まったく直接的に建築という形態をとった、希有の事象が金刀比羅宮プロジェクトなのかもしれない。


例えば「全ての建築は崩れるべきだ」と試しに言ってみた時、そのようなビジョンに重ねうる建築というのはどのくらいあるのだろう(誤解を回避するために言えば、これはむろん、今一部の好事家の間で愛好されている「趣味的廃虚」とはまったく無縁の概念だ)。とりあえず、国内にそのような作品が豊富なのか、と言えばそんなことはないと言い切れる。それは特定のグラフ誌での「写真うつり」という奇妙な評価基準しか存在しない建築界での話題作を一瞥しただけで了解できる(やはり建築の分野が美術の分野に比べて国際的評価が高い、というのは嘘で、どっちも輸出しえているのは、僅かな例外を除いてオリエンタリズムに応えたクラフトだけなのだ)。新たに作られた金刀比羅宮の空間は、崩れているわけではない。しかし、だからこそ踏み止まりのテンションによって立っている。