爆撃は続行される。様々な技術、多様な兵器によって大量の物資が投下される。大地はゆがみ、変形する。掘り返され、埋められ、堆積する。


そこには一見、それなりに緻密な計画があるように見える。しかし、にもかかわらず、作戦は何度となく繰り返される。見えない終わり。多くの戦争がそうであるように、この爆撃もやはり、奇妙に組織的な細部の戦術だけがあり、戦略というものが欠けている。


戦いとはそういうものだ。例えば「彼」の行っている戦い、「彼」の爆撃が、確かに見事な内容であることを認めるとしても、最後の最後にどうしても疑念を消し去ることができないのは、彼の爆撃が戦術だけでなく戦略まで含めて「完璧」であるからだ。


全体の目的がきわめてはっきりしており、武器弾薬は過不足無く準備され、丁寧な地図が用意されまた作成される。本来、爆撃において地図は役にたたない。そもそも地図を廃棄させることこそが爆撃であり、その過程で方位も失われる。いったいどちらが北で、どちらが南なのか?爆撃はこのような問いを問わない。


答えを求めるのが爆撃ではない。爆撃は問いも答えも粉砕するのではなかったか。「彼」の爆撃はあまりに知的すぎる。もしかして、「彼」の爆撃で使用されている爆弾には、真の爆薬ではなく、単に巨大な音と閃光の発生する花火が装填されているだけなのではないか?そこでは、現在の光景が、地形が、現状のまま肯定され、一切変更が加わることなく、照らされ音響によって飾られているだけなのではないか。


爆撃は変化を産まなければ爆撃ではない。また爆撃は何かを作り上げること(状況、権力関係、あるいは地勢)ではない。爆撃は一種の装置に近い。爆撃を通して起きる事態が観察され、経験される。爆撃に意味内容はない。


爆撃の物語を読む事など、最も間違った態度だ(それは捏造だからだ)。爆撃を、大地と共に「受ける」こと。爆撃「される」こと。「ゆがみ、変形する」こと。「掘り返され、埋められ、堆積する」こと。これ以外の爆撃/の経験はないし、だからつまり、爆撃においては、爆撃されることと爆撃することは、まったく対称の関係にある。


爆撃するものは、それによって自らを毀損し、穴をあけ、貫通させる。爆撃されるものは、それによって分析し、計測しなおし、再構築する。そして双方ともに次の爆撃の準備にとりかかる。これこそ最も正しい爆撃の成果だ。報復を産まない爆撃こそ、最悪の爆撃だと言っていい。