JR上野駅の正面玄関口(映画「おもひでぽろぽろ」でも丁寧に描写されていた猪熊弦一郎の壁画がある)エントランスの2F、いまひとつ上手に再利用できずに残されてしまったかのような空間で、改装休館中の東京ステーションギャラリーの企画による、「現代日本絵画の展望」展が行われている。ここは第二会場で、別途第一会場があるようだ。私は上野しか見ていないが、ここに関しては作品の質はけして良くはない。あの辰野登恵子氏の作品すらイマイチに見える程だ。休館中でもこのような隙間的な場所を利用し展覧会を運営している東京ステーションギャラリーは素晴らしいと思うし、しかもその内容が現代作家の絵画展というのも特筆すべきなのだけど「本展覧会のための制作を依頼」したという形式は、少なくとも全面的に成功したとは言えないのではないか。


ここに山本麻友香氏と山口啓介氏がペインティングを出品していて、その事実と内容に少し驚いた*1。山本氏がペインティングの仕事をしていたのはずいぶん前に知った(偶然京橋の画廊で作品を見た)けど、山口氏のことはまったく知らなかった。二人とも、私が学生のころ版画でデビューしていた作家だ。1990年代の前半から中盤にかけて、版画というメディアは奇妙な盛り上がりを見せていて、渋谷の松濤美術館で「現代の版画」展というのが開催されたり、プリンツ21なんていう雑誌まで創刊されたりした(今はすっかり別物となったが、創刊時は作品公募企画もあったりして、そこから高浜利也氏がデビューしたりしてた)。果てはフェリシモが若手版画作家の通販カタログまで出していた。もっともこのブーム?は、まるでバブルだったかのように急速に収縮してしまう。


山本麻友香氏や山口啓介氏が、そのような状況を上手く乗り切り、「ぺインター」として生き延びていた、という風に見るのはたぶん根本的に間違っている。むしろ問うべきは、もともと「版画」というカテゴリーとは無関係な存在だったに違いない2人が、なぜ一度「版画」に迂回したのか、ということだ。例えば山口啓介氏の版画は、その銅版画の文脈を一切無視したサイズ、「絵画的」キャンバスサイズで制作されたことがインパクトとなっていたし、山本麻友香氏であれば、見ようによってはイラストレーション的な人物像が、なぜか版画という形式をとっていたところが新鮮さに繋がっていたと思える。彼等の作品にはたいていプレートマークの仕上げ(銅板のふちをヤスリで削って滑らかに仕上げる操作)がなく、刷りの工芸性を意図的に廃棄したり製版をわざと荒れさせたりしていた。言ってみれば、最初から「絵画的」に版画を制作していたのが山本・山口両氏をはじめとする当時の若手プリンター達だ。


回想に基づく印象論なのだが、1980年から90年代当時というのは「自然に」絵を描くという、考えてみるとものすごく奇妙な姿勢が「ニューペインティング」として国内の状況を覆い尽くしていて、それが絵画をほとんど窒息死にまで追い込んでいたように思う。セゾン美術館が1996年にエンツォ・クッキ展を開いたのはほぼトドメに近いくて、「ニューペインティング」というものをあまりにイージーな形(もはや誤読そのものだった)で導入してしまった国内の絵画状況は、堪え難いまでに弛緩していた。団体展は論外として、安井賞は完璧にゾンビ化しており(そういえば山口啓介氏は安井賞に出品していた)、日本美術展は形骸化して毎年本当に同じメンツが退屈さを累積させていた。絵画ってこんなに酷い世界なのだとしかおもえなかったのが20世紀末という時間帯で、そのことに多少なりとも自覚的な人の一定数は「絵を描く」ことを“迂回”した感触がある。


版画に何があったのかといえば工業的、というか論理的工程で、これが一種の「質」を確保することになる。そして、版画というカテゴリーは、二次的な位置にあった分未開拓でもあった。絶望的に制度化されていた国内絵画にはない自由な感覚があったのが版画という分野で、なにかしらの形で「まともに絵が描きたい」と考えたら、反語的に筆を持たないというねじれた態度をとらざるをえなかったわけだ。版画でなければ写真や映像に“迂回”した人もいたし、インスタレーションや彫刻に“迂回”した人もいた。わずかでも光って見えたのはとりあえず「方法」という言葉を使っていた宇佐美圭司氏だったし、思えば岡崎乾二郎氏はシルクスクリーンの版を使った「ペインティング」を行っていた。筆を持ってキャンバスに絵の具を置く、という態度がほとんど信用できなかったのが当時の主観的な印象だった*2


とりあえず今回見た作品に即して言えば、山本・山口両氏ともに、(前述の通り良い作品とは言い難いが)十分に版画作品との連続性を感じる。山本麻友香氏は人物像というモチーフに関しては頑固なくらい一貫していて、版画ではストロークや筆のタッチを生かした線描をしていたのに、ペインティングでは一切筆跡を残さないという、シンプルではあっても意識的な技法の逆説性、および感情とイメージの関係を追っていることがわかる。綿布にステインされた像が映像的に過ぎるが、それこそ「わざと」の結果だと言える(この人は頭がいいのだと思う)。山口啓介氏は画面を上下に二分割し、下に写真製版したかのような花の像、上に記号化された花の形象を置いている。「実物」を表象する映像的な花の像は薄くステインした描画で物質性を消し、逆に記号化された花の形象は厚みを持ち物質性を強調した塗りを使う。その双方を越境するかのように透明な樹脂の不定形な載せがある。これまた意識的な制作で、いわば像と物質性のねじれたリアリティを追っているのだと思う。図式的にすぎると言えばそれまでだけど、内在的な問題設定なのだろう。


行けなかったが葉山や目黒で、ちょうどこのくらいの世代、かつての若手-いまの中堅作家の仕事を見ることができる展覧会が、美術館ベースで相次いだ(もちろん本当の若手もいたみたいだけど)。見ていない以上めったなことは言えないが、美術館や大きめのギャラリーが、少しだけでも同時代の問いとしての美術家の活動に目を向ける余力が出て来たのだろうか。それともたまたまなのだろうか。


現代日本絵画の展望

  • http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/
  • 〜2008年2月11日(月・祝)
  • 第一会場 旧新橋停車場「鉄道歴史展示室」 (汐留)
    • 開館時間 11:00〜18:00(入館は閉館の15分前まで)
    • 休館日 月曜日(但し、祝日の場合は開館、翌日休館)
  • 第二会場 Breakステーションギャラリー(JR上野駅正面玄関口ガレリア2F)
    • 開館時間 7:00〜23:00
    • 会期中は無休

*1:公式webサイトに二人の名前がない

*2:もちろん、そんな手は大抵安易な結果しかもたらさなかったのは確かで、こんな中で徹底して「絵画」に向きあっていた小林正人氏や小林良一氏、野沢二郎氏といった少数の人たちが「時代の印象」とは無関係に反動的なまでに高い質を持った絵画を生産していたことは公平に見て事実だろう