先日、茅場町のSAN-AI GALLERYで見たグループ・ショーでの南條敏之氏の写真が、ちょっと面白かった。南條氏の優れたいくつかの作品には、どこか写真とデッサンの狭間を形成するような奇妙な感覚がある。南條氏の写真を見るのは初めてではなくて、私は昨年川口のmasuii R.D.Rギャラリーでの個展を見ている。その時から、私は南條氏の写真にいくつかの意味合いの「弱さ」を感じ取っていた。この「弱さ」には消極的な面と積極的な面があるように思う。消極的な「弱さ」とは、はっきり言ってしまえば作品としての「弱さ」なのだけど、この欠点であるだろう「弱さ」が、なぜか南條氏の写真においてはどこかで積極的な「弱さ」、つまり、儚く繊細ですぐに消え去ってしまうものだけが開示できる、ある種の空間に接続されているようにも感じた。だが、この「感じ」自体がどうにもしっかりとした言葉に固定できず記述に困るのだ。


南條氏の写真はけして曖昧ではない。というよりは呆れる程明解きわまりない。要するに、どれであっても水面に反射する太陽光を撮影している。工芸的に仕上げられたプリントは透明なアクリル板に接着され、壁面に展示されている。このプレゼンテーションも作品の有り様に大きな割合を占めているように思う(例えば、同じ像が写真集のような印刷物になっていたり、あるいはwebでモニターで見るとしたら、作品のかなり重要な箇所が変化するのではないか)。あるものは比較的遠くから(高い場所から)、周囲の風景(川べりの草や岸)を画面周辺に入り込ませ、あるものは画面一杯に、ゆらめく水面をたゆたっている日光の反射が定着されている。そういう意味では画面の在り方はむしろ「強い」。つまり多数の作品でコントラストは大きな落差を作っている。黒、あるいは黒に近いような濃い青の色面の中央、おおよそシンメトリーな構図でほとんど白くとんでしまっている光がはっきりと刻印される。紙に定着した光は当然反射光でしか見られないのだが、一瞬太陽光を直接見てしまったかのように眩しいという錯覚もおこさせる。


明晰で一貫した方法、強いコントラスト、おおよそ中央に捉えられたモチーフと、南條氏の写真には「弱さ」に繋がる要素がまったくない。にもかかわらずそれが「弱さ」を感じさせるのは、まずなにより写っている対象が「水」の面に反射している「光」でること、しかもその「水」と「光」がふらふらと動いていて静止していないからだろう。我々は写真を見る時、多くの場合その像「だけ」を見ることはしない(できない)。その像が自分の経験に接続され、「実体の感覚」を喚起させるから、「写真」それ自体がもたらす感覚というのはありえなくて、「写っている対象」がもたらす感覚が分離し難い。だから、南條氏の写真がもたらす感覚とは、コントラストや構図といった作品の構造と相まって、「ゆらゆらとゆらめく水面上の太陽光」という、手触りや臭い、味といった五感にまったく作用しない、捕らえ所のない「はかなさ」=弱さを、経験の質の中核に保持するのだろう。


このことは、消極的な面での南條氏の写真の、「作品としての弱さ」に繋がりうる。南條氏の写真はかなりの程度、モチーフの有り様をそのまま作品の質の有り様としてしまっていて、モチーフから独立した作品としての自律的「強さ」を獲得できてはいないのだ。写真が常に「なにかについての写真」でしかあり得ないことと、しかしにもかかわらず対象から自律した「写真それ自体の在り方」を獲得できることは矛盾しない。写真と言うメディウム、写真と言う形式それ自体は、いわば対象を一つの契機として対象から切り離された質を保持できるのではないだろうか。私は先日、セザンヌとサント・ビクトワール山の関係について『セザンヌは記号の立ち上がりという水準で、実際のサント・ビクトワール山と対等で同量のサント・ビクトワール山を、キャンバス上に「反復」したのであって、サント・ビクトワール山を「模倣」したのではない』という主旨の事を書いたが(参考:id:eyck:20080107)、南條氏の写真においては、水面に写った太陽光という出来事がいまだ「反復」されず、「模倣」されているように思える(つまり、実際に水面に写った太陽光を見た時の感覚が「反復」されず「模倣」されている)。


しかし数点、「模倣」ではなく「反復」に辿り着いていると思える作品があって、それは周囲の環境をほとんど入れこまず、モノクロに近い画面に光の揺らめきの軌跡がそれだけ切り詰められて定着されている作品だ(例えばこんな作品:http://www.smithnsmith.com/pulse/displayimage.php?album=lastupby&cat=0&pos=7&uid=11)。このシリーズの作品の面白さは、水面とそこに反射する光があるという「状況」ではなく、水面とそこに反射する光がつくり出す「時空」が捉えられ、それが作品として(模倣されるのではなく)「反復」されているからだと思う。簡単に言えば、この作品がつくり出す経験の質は「水面とそこに反射する光」を実際に見ていても発生しない。南條氏の写真作品が自立的に発生させるものだ。このシリーズにおいては、光のたゆたいの軌跡が立体的に見える。強くシャープに定着した白いラインは「近くに」みえるし、やや薄くぼんやりと写った光は「遠く」に見える。このような空間が成り立ったのは、実はある種の錯覚、時間とともに揺れる水面を動き回る反射光を露光時間の範囲で定着させた写真が作るイリュージョンなのだが、このイリュージョンこそ南條氏の写真に固有の質となっている。


私はけして「風景」を撮ったらダメで、フォトグラム的な「光のドローイング」をすれば写真が対象から自立すると言っているわけではない。高梨豊氏が撮った「風景」は作品として自立しているし(参考:id:eyck:20050505)、須田一政氏が撮った「風景」も同様だ(id:eyck:20040510)。ただ、南條氏の写真作品においては、このような切り詰められた表現がもっとも成功している。それは切り詰められているが、けして現実の対象、確かに存在したであろう水面と光を排除していないし、むしろ「風景」的な作品よりその存在感は濃厚と言える。私が南條氏の写真を「デッサン」と呼び「ドローイング」と言わなかったのは、この、現実のモチーフの、作品内における豊かな契機としての有り様を言葉に含めたかったからだ。私が優れていると感じた南條氏の写真では、水と光が織り成す時間と空間、それは間違いなく「水」や「光」や「時間」といった、捕らえ所がなく静止して確定させることができないもののもつ儚さによって成り立つものだが、そういった出来事が不純物を排除した形で反復されている(それを捉えようとする作家の呼吸までが感じられるようだ)。水や光、時間がなければこの作品の複雑さは獲得されなかっただろう。


写真におけるデッサンが、単に抽象的で実際の現実を何も反映させていない「線遊び」ではなく、ある豊かさをもったものであるためには、そこに「対象」となったものの豊かさを契機として含み込まなければならない。モホリ-ナジや瑛九のフォトグラムが、形式としては興味深くても作品として貧しくあるのは(彼等の場合、貧しさは必ずしも否定的なものではないのだが)、雑駁にいえば写真が条件として持つ二次性、何かについての写真でしかありえないというメディウムの条件を捨てて、「自由」に「自立」してしまっているからだ。南條氏の写真、その最も成功した作品では、写真は写真としての条件をふまえながら、なおかつ作品として独立した「強さ」を持つ。その「強さ」は、いわば徹底して「弱さ」に留まり、「弱さ」に正確であろうとした結果のように思える。残念ながら展覧会は本日の17時で終了する。


●Internal-形象-