埼玉県立近代美術館熊谷守一展。熊谷には自分の子供の死を主題とした絵が数点あり、うち長女・萬の死に基づいた2点「ヤキバノカエリ(1948-55)」「萬の像(1950)」がこの展覧会でみられる。また、私は去年訪れた大原美術館で「陽の死んだ日(1928)」を見ている。「ヤキバノカエリ」は熊谷の代表作の一つとも見えるし、「陽の死んだ日」は、いわゆる熊谷様式の定着する前の、中期の表現主義的作風のエポックとして評価が高い(充実した今回の熊谷守一展に「陽の死んだ日」が出ていないのも、大原美術館では門外不出の扱いを受けているからではないか)。対して「萬の像」は熊谷様式でもなく激しいタッチを持っているわけでもなく、一般に広く知られるような作品ではない。


東京美術学校を、同期の青木繁らをさしおいて首席で卒業しながら一時はまったく筆をとらず、高齢になってから代表作を量産した孤高の天才・熊谷守一の、しかし誰にも共感を覚えさせる親心の発露として見られることの多いこれらの作品群は、私が見た範囲ではそういった枠組みに納まらない。どれも父親の内面、といったものとは無縁で、子供の死を前にしてすらキャンバスと絵筆を持てば熊谷はあまりにも単なる画家としてふるまっている。いくらなんでも冷静すぎるのではないかとすら思うのがこれら3点を見た印象で、熊谷は子供(達)の死を常にモチーフとして対象化しており、興味深い。


「陽の死んだ日」は画布に油彩で描かれている。横60.5cm、縦49.5cmの大きさがある。画面中央に横たわる陽が強い筆致と盛り上がる絵の具で集中的に描かれ、画面のすみにいくほど塗残しがありキャンバスの地が露出する。彩度の高い赤と頭髪を示す黒のコントラストに囲まれた、陽の死に顔だけが鈍く混色された黄土色で、布団を示す白、蝋燭の炎の黄色と、全体に鮮やかな絵の具が、激しい筆使いにもかかわらずほとんど混濁せず(要するにとても冷静に「激しい筆致」をコントロールしているのだ)配置された中心に、この彩度の低い陽の死に顔だけが逆説的に浮かび上がる構造になっている。この色彩計画だけでも熊谷の伶俐さは目立つが、ことに異様なのはこの伶俐さで熊谷が息子の「死体」、死、ではなくモノとしての「死体」に興味を絞り込んでいる点だ。


鈍く濁らされた黄土色は、心身代謝を停止し腐敗への一歩を辿りはじめた「にんげんのしたい」という極めて特殊な物質と二重化される。いうまでもなく「死体」のような奇妙なモノへの好奇心は熊谷にとって陽の死によって突発的に惹起されたのではなく先行する1908年の「轢死」(今回の展覧会にはない)とつながるモチーフと言っていい。表現主義的な絵の具の扱いも、埼玉県立近代美術館の展示で見ることのできた同時代の作品、例えば1927年の「線裸」などと連続したものだ。ここではいわば絵の具の、イメージの中での物質性と、人のイメージが後退しモノのあらわれが表面化した人体の重なりが主題になっている。


「ヤキバノカエリ」はやはり画布に油彩で描かれている。横60.5cm、縦50cmのサイズがある。ここで熊谷の色彩建築は洗練を深める。画面中央の白い骨つぼを示す四角い色面は小さいが、その周囲に配された繊細な中間色の組み合わせ、及びそれらの色面を区切る褐色の細い輪郭線によって、ちょうど「陽の死んだ日」と反対に、白い骨つぼは画面中で落ち込むデッドポイントではなく、なかば内側から発光するかのように組織されている。この、外へと広がるような膨張感を孕む白い色面の大きさは周到に定められていて驚く(向って左の、次女の手元の青い色面との面積対比が効果的だ)。構造としては1959年の「雨水」や「立秋の秋」にやや近似している。単純なシンメトリーからわずかに上に外された白い色面が、まるで画面を漂うように定位できない様子は画題と相まっている。


「萬の像」が「陽の死んだ日」「ヤキバノカエリ」と異なるのは、この作品が純然としたイメージを描こうとしている点にある。「陽の死んだ日」においては(「自分の子供」という)イメージが後退し腐敗が進行をはじめたモノが前面化してゆく、そのプロセスをシャープに切り取っているし、「ヤキバノカエリ」では、イメージが抽象的に操作され構築された絵の具が、独自の色彩=光りを生成する装置として展開している。対して「萬の像」は、既に死んだ萬の顔を思い出しながらその脳裏に残ったイメージだけを再現しようとしている(画題が直接この絵の目的を示している)。「萬の像」ではモノが前面化することもなければ、色面がパーツとして明解に区切られ組み合わされることもない。縦45.8cm、横38cmの木の板に薄く重ねられた絵の具は木にしみこみ、思い出されるしかない曖昧な「像」を心霊写真のように浮かび上がらせる。


熊谷の作品は年齢とともに大きく変化するが、いずれの時代でもその仕上がりは明解で個々に目的がぶれていない。そんな中で「萬の像」は数少ない熊谷にとっての“言い切り”がされていないものに見える。もっとも、この作品もけしてスタンドアローンであるわけではなく、先行する1918年の「某夫人の像」の延長と見る事も可能だろう。「某夫人の像」は「萬の像」よりもはるかに古典的な形態描写を持つが、いずれも基本的に物質性や色彩ではなく、まずなによりイメージの定着を狙ったものであることは間違いない。短絡してしまえば、熊谷は絵画における物質という相を「陽の死んだ日」において追い、イメージの相を「萬の像」において追い、その双方が止揚された状態が「ヤキバノカエリ」なのだ、という物語りを組み上げそうになる。が、これは端的に間違いだ。制作年を見れば1928年に「陽の死んだ日」が描かれ、遥かに下がって1948-55年という時間をかけて「ヤキバノカエリ」が描かれているが、「萬の像」はこの「ヤキバノカエリ」の制作中であった1950年に制作されている。要するに熊谷は各作品において個別に課題を追っている。


単に3点を並列してしまえば、「萬の像」は未完成作、あるいは失敗作とも見てとれる。が、「萬の像」も二紀会に出品されていて、熊谷にとってはあくまで完成し独立した作品として扱われている。このような「言い切れない」像、思い返されるしかない記憶/確定できないイメージこそ、「萬の像」において熊谷が追った「モチーフ」なのだ。あえて言えば、既に熊谷様式を作りつつあった1950年に、陽の死を遡る時代(1918年の「某夫人の像」)と通底する形式でイメージを追った「萬の像」が、熊谷守一にとって特殊で異例の作品だと見るべきかもしれないが、こんな言い方も危うい。熊谷にとって目に写るあらゆる出来事がどれも並列に感受されているかのように感じるのが今回の熊谷守一展だ。子供の死も虫の生も風に吹かれる梢も、熊谷の作品においてはモチーフとしてある位相に定められる。だとすれば、熊谷は子供の死に無関心だったのではなく、虫の生や風に吹かれる梢にも子供の死と同等の何事かを見て取ったのかもしれない。