絵画において、画面の四角いフレームが最初から前提されていて、その上で「自由」で「自律的」に描くことは何の苦もないし、また往々にして「自由」で「自律的」だと自分が感じている時というのは、なんのことはないフレームに抵触しない範囲でしか動いていない事が多い。恐いのは美術学校における訓練、というもので、この訓練はなにはともあれフレームを前提させてその中で「自由」に/「自律的」にふるまう術を身に付けさせていく。この訓練の凄さは、「なんて自分は自由で自律的なのだろう」と思わせ行動させながら、その実その「自由」や「自律性」を規定している大枠のフレームを再帰的に強化させるということで、快適でスムーズな「自由」を謳歌する各要素(ストロークだろうがタッチだろうがマチエールだろうが)の楽天性はモノの見事にフレームに触れないままフレームに支配されている(日本で流行った「ニューペインティング」の「自由さ」というのはおおよそそんなものと見ていい)。


逆の状況もある。フレームの、あまりの強固さに耐えかねて、ごく単純な「キレかた」をして、まったく素朴にフレームを破壊にかかったとする。そうすると画面は破壊されて抑圧されていた物質性が露呈し、一瞬そこにカタルシスが産まれたような印象を与える。が、ちょっと引いてみれば、その物質性なるものは、それが置かれている場所や状況・文脈に支えられ規定されていることが一目瞭然になる。このことに気付いたものは、例えばこれまた単純にサイズの拡大を図ったりするのだけど、これは上記の骨格を転覆できない。ホワイトキューブの中のインスタレーションから美術館や建物を包囲するワークショップへ、路上や広場でのハプニングへ、地面や空、自然環境へとより拡大したアースワークへと展開しても事情は同じだ。何のことはない、フレームがどんどん強化されるだけで「構造」は1ミリも動かない。


フレームに揺らぎを与える、というのは単なる力技ではできないし、もちろん安直に外からフレームを壊したところで、その外にさらに強いフレームを見い出す事しか出来ない。ここで必要なのはフレームとの、絶えまのない交渉と隙をみつけてのゲリラ戦だ。いかにも従順そうなそぶりをみせながら、どこかで「あんまりだとキレるかも」と凄んでみせることも必要だろう(例えばゴッホの絵とかはそんな感じだ)し、一見それとはわからないような微細な振動を増幅していって、その振動がいつしかフレームを蒸発させてしまう、という戦術もある(ボナールなんかが該当するだろうか)だろう。


と、ここまで書いてしまえば分かってもらえると思うのだけど、私は美術の問題を、美術それ自身の内在性において思考しながら、まったく同時に外部について考えている(誤解を防ぐために言えば、個別の本質が類的本質に辿り着く、という話しではない)。蛇足だろうが一応書くと、一見各要素に自由を謳歌させながらしかし設定されたものに抵触しないかぎりにおいてのみ存在を意識させないフレーム、というのはもちろん国とか権力と構造が連結するし、「キレ」てみせたところで自由になったり過去や環境を精算できたりする筈はなく、単に自分を縛っているより大きな枠組みがずっと強く自分を縛っていくことが露出するだろう、というのはテロや無差別殺人事件と構造が連結する。


どっかの某国はまったく悲惨な圧制国家だ、と揶揄しておいて、その実自分の与えられている「自由さ」をチェックしたこともない(正確には、けして不自由さが露呈しない範囲でしかチェックしないよう訓練されている)とか*1、しかしそんな「自由さ」はなんのことはない海外から1人の外国人を招聘することもできない程度の「自由さ」でしかなかったりとか、自分を不自由に閉じ込めた環境への反作用のように無差別に殺人を犯したとたん、自由になるどころか単にいままで自分を縛り付けていたものが目に見えるようになってより強化されたりとか、その果てにまるで「首尾よく」死刑になったように虚勢をはったとしても、その実はっきりと即物的に“殺される”恐怖をつきつけられ驚くような残虐さと苦痛を味わいながら絞首刑になって自分自身が醜い死体になったりとか、聖戦を叫び自爆した結果、最悪の戦闘状態を引き起こし露骨な暴力支配を招き寄せてしまったりとか、そんな状況が日々繰り返えされている。


「そんなことしてないで絵でも描けば」とは言わない。各現場には各現場の切実さというものがある。ただ、美術が世界から切り離された、現実から浮遊した抽象論だとかいう、これまた安直な言い様だけはもう止めてほしい。それは美術が、即物的な政治的正当性をテーマにしたものであるべきとか、アートが「負け組」の居場所として有効とか、そんな程度の話ではない。むしろ、美術の、もっとも抽象性の高いハイな思考こそ(そのハイな地点において)世界に接続しうるのだし、そういう接続の仕方にしか意味はない。はっきり言うけど、現在のアートシーンにおいて、ほとんど目立っていない、しかし個別には確かに存在する優れた作品には、今後100年から500年くらいの単位で人々の生きて行く指針となりうるアイディアが予感されている(ルネサンスの美術がその後の近代的な社会の到来を予感していたり、印象派の絵画が現代の個人の在り方を予感していたりするように)。私は、美術の問題を徹底して考える。それはけして細分化されたポストモダニズムの島の一つに逃げ込むためではない。この世界で、単純さに落ち込まず「豊かに」生きてゆくには、それが極めてストレートに有効だからだ。

*1:言うまでもないが圧制国家の非を唱える事自体は重要だ。問題はそれが表面的な部分ではなく、nation-stateの水準で考えられるべきだということだ