●バッハの音楽はほとんど問題なく美しいと感じる。しかし、それ以前に遡るととたんに怪しくなる。12-3世紀のゴシック期の音楽、例えばフランスのノートル・ダム楽派になるとかなり奇妙な感じがする。多声音楽は興味深く聞く事はできるのだけど、それは教養とか知的関心とかに基づくもので、すくなくとも私は、心からまっすぐ美しい、と感じない。グレゴリオ聖歌も、聞くには聞けるが日常的にディスクをかけたいとは思わない。もう少し世俗的な、ルネサンス期のフランス・イタリアの音楽をよくもわるくもポップな感覚で演奏していたグループにタブラトゥーラというバンドがあって、今の活動は知らないが1stアルバムは古楽ばかりやっていた。私は学生の頃にこの人たちの音楽会にも行ったのだけど、このバンドはあっという間にオリジナルの音楽をやるようになってしまい私の関心から離れた。このへんの事情にも伺えるが、ようするにこの頃の音楽で現在の感覚にマッチした曲というのは凄く少ないのだと思う(1stアルバムもなかなか苦しい感じではあった)。


●ヨーロッパがまだアラブや中国に比べて後進国で、あくまでローカルな地方/田舎だったころの音楽と言うのは、普遍的な「クラッシック」ではなく「ヨーロッパ民族音楽」だったのだろう。そういうのは、例えばフェアグランド・アトラクション解散後、ソロ活動の中で徐々に自らのアイディンティティを確かめるようにアイルランドスコットランドなどの民謡を歌いはじめたエディ・リーダーの近作を聞いていても良くわかる。シンプルソウルとかは名ディスクで、昨年のクアトロでのライブも楽しんだのだけど、これも恐らく厳密なリプレイではなくエディのシンガーとしてのプレイが相当なウエイトを占めていると思えて、ただちにアイルランド民謡のファンになるとか、そういうことはなかった。


●一般に美術、ことに造形芸術はそのへんの耐用時間が長いのは事実で、ロマネスクの教会(ル・トロネとか)をコルビジェが参照してもまったく無理がない。高松塚古墳の壁画もごくストレートに美しいし、アルタミラやラスコーの壁画などもとくに留保することなく現役だ。私が100%まったく躊躇せずに「現役」と思えるバッハ(1685-1750)が、実は18世紀の音楽家だということに気付くと、この差がはっきりする。18世紀なんて、美術にとってはつい最近の出来事で、バロックの代名詞ともいえるルーベンス(1577-1640)すらバッハがうまれる40年前に死んでいるし、かろうじてフェルメール(1632-1675)とかがひっかかかる。日本だったら伊藤若冲(1716-1800)とかの時代だ。


●「美術の優位」を示したところで「自分の優位」を示したことにはならない。事態は逆で、今自分が自らの作品を作る時も、また他の作家の作品を判断する時も、基準としているのであろう「何か」は、実はまったくアテにならないのかもしれない。バッハの美しさに感動した後、古楽の音色に飲み込みずらいものを感じて思うのは、むしろ自分の美術に対する判断基準のぜい弱さだ。ある優れた作品を前にして、私が感じている「美しさ」などというものはまったく弱くて、それに基づいた作品など、ただちに私が理解できない音色のように「これの何を良しとしたのかわからない」ということになってしまうのではないか。危険な誤解が生じるのは美術におけるマスター・ピースを見ている時で、例えば私がマチスの「夢」を見て美しい、面白いと感じた(参考:id:eyck:20041026)、その感覚自体はまったく普遍性など保証されていない。マチスの「夢」が明らかな傑作で、100年たとうが200年たとうが保存状態さえ良ければ多くの人々を感動させることができるだろう、ということと、「私」がこの作品から受けた感覚に強さや正当性があるという話しはまったく別だ。むしろ、マスター・ピースを見ている時こそ、それを見るものは試されている。いったい、あなたはこの作品を見ることができているのか?


●私はたぶん「質」というものを考えている(言っておくけどクオリアとかは全然関係ないし興味もない。あと、工芸的な品質の話しでもない)。ごく初歩的で、かつ冷静に考えればまったく無根拠な「この作品には質がある」という感覚。いったいこの「質」とは何か。ある作品を見て、私と他人で「この作品には質がある」と確認しあったところで、その双方が言っている「質」が同じである保証はもちろんない。グリーンバーグが、白いキャンバスを壁にかければそれはたしかに絵画と呼ばれる、しかし“良い”絵画ではない、と言った、この“良い”とはなんなんだ、という議論があって、要するにそれは趣味じゃねぇか、というのが大ざっぱな批判だったわけだけど、話しはそんなに簡単なのだろうか。私にはそうは思えない。たとえば、ステラのぎりぎりミニマリズム直前にまで切り詰められたストライプ・シリーズの絵画にある「質」は、その後の彼の意味不明なレリーフ状の作品にはない。さらに、ステラのストライプ・シリーズが、要はグリーンバーグ流のモダニズム絵画の理論のリテラルな実体化だった、と片付けてみたところで、あの「質」は消えてなくなったりしない。そういった感覚を単に「趣味」といって消し去ることができるのだろうか。例えば、絵画の面白さを、その内部の関係性の複雑さだけに還元したところで、この「質」の問題は解消しない。