A-thingsにて近藤学氏によるレクチャー「プロセスの系譜学―デ・クーニングから出発して」を聴講した。デ・クーニングが制作途中の自作のパーツをトレーシングペーパーに写し取り保存しておいて、それを他の作品の途中で挿入して(転写して)加筆し制作していた、という記録から話は始められ、記憶の物質化/素材化をヴァレリーの記憶論と絡めて思考し、さらにそこからマチスのプロセスとバリエーション・ピカソの連作の問題に垣間見える制作の恣意性に繋げていく、という内容だった。2004年の美術手帳のマチス特集号に掲載されていた近藤氏のtxtにほぼ沿っていた(これが面白かったので今回聴講したのだ)。まるで近藤氏の脳内メモが外部化されたようなライブだった。以下はそのような、現場で感じたインスピレーションの羅列になる(けして当日のレクチャー記述ではない)。

  • 制作における恣意性とはなんだろう。こういう事を、一般に制作者は厳密には考えないように抑圧する(考えたら手が止まる)。画家なら多くの人が「完成」というタイミングの危うさ・もろさは内心意識しているだろう。私が考えさせられたのは、現実の限定性を引き受けるポイントと、そこに介在する技術の問題だ。もう少し言えば、結局作品=現実は、いつか1つの確定(完成)を見せてしまう、という事実を、技術(テクニック/テクノロジー)を介在させてずらしていこうとするとき、そこに発生する恣意性(曖昧さ)は、作家という主体自体を曖昧にしてゆくが、そのことは可能性の豊かさには繋がるとは限らないのではないか、ということだ(近藤氏はそこで現れる揺らぎを「豊かさ」とは言っていないが)。デ・クーニングの持つ「豊かさ」は、恐らく過去の自作からのトレース・アーカイブには還元されないし(それはまったく効果的ではない)、逆にデ・クーニングを限定しているフレームはもっと別の次元のものだと思える。もちろん、決断/完成という、突き詰めれば無根拠な瞬間に露呈する「作家」あるいは「作品」の主体性に対する疑問、という方向は理解できる。また、そこでの主体が溶融してゆくことは、おそらく現在のアクチュアリティーとしては固有名を持つアーティストに限らず、即物的なメディアの問題としてリテラルに広範に進行している。
  • 自作のパーツの反復的使用、というのは私が知る範囲ではペルジーノの例がある。過去作品の天使などをカルトンでとっておいて他の作品に転用し、それが独自の複雑な絵画空間の起動に繋がっていることは過去エントリしたが(参考:id:eyck:20070604)、デ・クーニングと異なるのは、その戦略性だ。要するに、ペルジーノは自作パーツのコピー&ペーストの効果を十分に計って最大化していた。それはけして商業的な理由ばかりではないはずだ、というのが先のエントリの骨子だが、目的がなんであるにせよ、エフェクティブであることに変わりはない。実際、このテクニックによってペルジーノはある種の「豊かさ」を実現している。対してデ・クーニングのトレース・アーカイブは、(例外もあるようだが)最終行程では消えている。いわば描きに埋没することに対して、「距離」を持つためのエクズキューズに近い印象を受けた。画面に対する句読点のようなものとしてデ・クーニングのトレースはある。そこでは確かに「記憶」は現在における働きとして機能する(ヴァレリー)。しかし、それは結果としてデ・クーニングの作品を「豊か」にはしないし貧しくもしない。画家が、自分のデッサンを確認するときに鏡に映してみる、そんな行為のバリエに思えた。
  • デ・クーニングからマチスのバリエーション、ピカソの連作へと話が続くにつれて、作品における「決定」の問題、そこに含まれる恣意性の問題がクローズアップされていく。近藤氏のレクチャーはあくまでその恣意性に焦点があるのであって、はっきり「主体性批判」がされたわけではない。それを前提としての話だが、やはりそこに近代的主体の脆弱さが露呈するのは論理的帰結だろう。単独のタブローという整然とした近代的構造が、しかし明らかに揺らいでいるのがマチスにおけるマーグ画廊での途中経過の写真展示であり、一見「決断主義者」としてふるまったピカソの連作とされる。ここで特にピックアップされたのが写真図版・印刷メディアの存在で、途中経過が撮影されること、それが印刷されること(更にはピカソのレゾネのようなカタログ化)が、単一のタブローという概念に揺さぶりをかけているとレクチャー中指摘された。実際、デ・クーニングのトレース・アーカイブの問題も、雑誌に載った写真が大きなソースになっている。こういった問題がアクチュアルなのは、似た問題が、まさに今反復されているからだ。しかも反転した形態で。
  • ややジャーナリスティックな切り口になるが、youtubeニコニコ動画等ネット上におけるMAD映像は、まさに上記の構造と鏡像的関係を持っている。すなわち、1点の完成したタブローの背後に/あるいは並列された連作に、他の可能性がありえたことを示すマチスピカソとは反対に、ネットのMAD映像は、完成された映像作品から無数の「こうでもありえた可能性」を事後的に産出してゆく(特権的な作者の名前とは無関係な匿名性において)。美術史・絵画史的にも、先行作品のコピーやパロディーはありふれているから(デュシャンにおけるモナ・リザなどは、極めてMAD性が高いだろう)、こういう事は極端に目新しい事態ではないのだが、その量的拡大が、ある一定の臨界点を形成していることは確かだと思える。問題は、こういった、たった1つの決断を曖昧にする「可能性」は、単一のタブローに比して「豊かな可能性」なのか、ということだ。
  • 繰り返すが近藤氏のレクチャーは、単一のタブローという概念の恣意性を問題にはしつつ、そこでの「他でもありえた可能性」を「豊かさ」だとは言っていない。あくまで決定的な主体による決断に含まれる揺らぎの提出にとどまる。それを私のような絵を描くものが受け取った時、ふと「他でもありえた可能性」を「豊かさ」と受け取りたくなってしまうバイアスが働く、というだけだ(画家の問題ではなく私の問題か)。だがそれは、多分幻のようなものだ。
  • 例えばデ・クーニングであれば、「女穵」をはじめとする、いくつかの決定的な作品の質があってこそ、初めて他の(それほど強度のない)作品や、それらの作品の制作過程が問題となるように思える。また、途中に様々なプロセスがあったとしても、実際にはその作品はある1つの「作品」にしかなりようがない(質疑応答でも出た宮沢賢治とは位相を同じくできない)。実はマチスに関しても似た事が言える。「夢」(参考:id:eyck:20041026)は、確かに他の形態でもあり得たかもしれない。しかし、なおかつ、事実としても権利としても、もはや「夢」は“この”「夢」でしかあり得ない。この決定的な交換不可能性は、ピカソにおいても原則的に同じだ。膨大な連作が並列されればされるほど、個別の作品が「その」作品であることの不動性はむしろ強化される(柄谷行人の固有名の問題とも通底するかもしれないが)。更に拡張して言えば、ピカソピカソでしかありえない。あの、膨大な作品や連作を延々作り続ける、その多産性こそピカソピカソに固定し続ける。
  • ネットの「豊かさ」が、かっこつきのものであることも当然鏡像的に露呈する。例えばどこまでいってもMADはオリジナル作品を必要とし続ける。主体の揺らぎや複数性が、事実としてあったとしても、それが可能性の複数性を逆に否定してしまう事態がある、なんてことを書くと、どこかで「モダニズム反動」とか言われそうなのだけれども、いわばそのような現実の決定的な取り替え不可能性があるからこそ、人は新たな生産に向かう筈で、そういうことが思考できたというだけでもこのレクチャーは刺激的だった。継続した展開があるといいと思う。