出光美術館での「ルオー大回顧展」はもう終わってしまった。ちょっと前に見た松下電工汐留ミュージアムでの「ルオーとマティス」展(参考:id:eyck:20080513)で感じたのが、ルオーの「黒の鮮やかさ」なのだけれど、その印象は今回の展示でも変わらない。ルオー、という人はその生涯で、初期を除いて一貫して同じ事を反復している。しかもその数が膨大だ。ここで驚いてしまうのが、こんなにも長い期間、同じような絵ばかり描きながら、その質がほとんど一貫してブレを見せない、ということで、普通あるスタイルを確立した画家がその様式を再生産し続けると内容がなくなりダメになるか、あるいはその空疎さに画家自らが耐えきれなくなってマニエリスティックに奇形化してしまう。ルオーにはその気配がない。なぜか。


もちろん、なにもかもが同じなわけではない。主題は変わり、様々な技法が試される。油彩にしても、最初から全部にゴツゴツとした分厚いマチエールがあるわけではない。ただ、見ようによっては相当にバリエーションのある作品群に対するルオーの「姿勢」というか、画家の作品への取り組み、その構え・心の有り様といったものが、ほぼ同じに見えるのだ(モローに学んでいたごく初期の作品だけ、この作品への取り組み方が違う)。グアッシュの下絵から銅版画に移した作品でも、そのグアッシュの下絵はそれだけでほぼ作品として完成している。そして、そこから作られた版画が、同じことを反復している退屈さを感じさせない。これがいかに特殊か了解できるだろうか。ルオーはグアッシュの段階でやりたいことがはっきりしているし、それが全部できている。それを、版画にする場面で反復する、そこでも、まるで初めてその絵を描くように取り組める。


こういうことが、ルオーの画歴全部に渡って延々と連続していく。だから、ルオーの場合、ある作品を特権的に見ることが難しい。例えば、どれか1枚会場で好きな作品があったとする。他の画家であれば、その作品は、やはり他の作品とは異なった、その作品1回きりの、単独の存在として「好き」になるだろう。ルオーの場合でも、やはり絵ごとに大きさや主題や技法は異なるのだから、どれか一枚を好きになることはある。だけど、そこで得られる感覚が、「他の作品では絶対得られない」かといえば、たぶんそんなことはない。かなり共通するものを、他の作品でも得られるし、それは往々にして、ずいぶんと制作年の異なるものであっても代替可能だ。繰り返すがそこに差異がないわけではない。だが、その差がとても小さいのだ。印象的な色彩のタブローと、モノクロの銅版画で、その骨格は変わらない。


ピカソの、ごく短期間に制作されるたくさんの連作でも、こういった事は起きる。配置や構成を少しだけ変えた静物の連作(有名な「パラパラマンガ」みたいな作品)でも、その個別の作品の特権的な単一性は極小になっている。先日のA-thingsでの近藤学氏のレクチャーによってしまえばそれは「恣意性」と言われるだろうが、しかしルオーの作品で見える、作品相互の交換可能性は、おそらく「恣意性」とは異なる、というか根本的に対立するものだ。なぜならそれは多分、構成とかバランスとか関係の問題ではないからだ。


どうしてだろう。なんであんなにルオーは一貫していてぶれないのだろう。ほぼ同じような構えから繰り出される、無限のフィギュール。おそらく、そこには途絶えることのない泉のような、「描き」に対するルオーの飢えと喜びがある気がする。例えば、人は毎日、料理をする。それはおおよそある程度決まったメニューで、たまには新たなレシピや材料が加わることがあるかもしれないが、そのことによって「その人の味」のようなものは変化しない。そして、何度料理し食べても、次の料理の時には、新たな食欲に駆動されて、喜びと切実さをもってキッチンに立てる。まるでルオーは毎日料理するかのように絵を描いている。そして、その度毎に新たな欲動に突き動かされている。だから空疎になどならないし、無意味な「工夫」を加えてマニエリスティックになることもない。


いや、このような例えは危険だ。ルオーの作品は他のルオーの作品と入れ替え可能だとしても、ルオーその人自体は入れ替え不可能だからだ。ルオーに似た画家、というのを私は見た事がない(たぶん、モローの影響はルオーが一番受けているとおもうから、かろうじて近似なのはモローかもしれないけど)。そういう意味では宮沢賢治に近い。ルオー的流れ、というものはないしルオー的な画家ももう二度と現れない。だからこそ、私は何度でもルオーを見に行くのかもしれない。ルオーからは、なんというか、何も学べない感じがある。ただその輝きに眼を晒す誘惑から逃れられない。