父が亡くなってから、漠然と父の死に対し後悔に似た気分が残っている気が、ずっとしていた。父は脳梗塞で倒れて入院して3年でゆっくり衰えて死んでいったから、彼の死に私が直接なにかしらの責任があるわけではない。私が生前父と対立していた、というような事も無い。


よくある話程度には、私も10代で父に疎ましさを感じたこともあったし家族らしく酷い言葉を発した事もある。父に殴られた記憶はないのだけど、何かの機会に感情をぶつけられた覚えも1度くらいはある。こんなことは取り立てて後悔の元になるものではない。今思い出すと、むしろ父は私に叱ったり怒ったりすることの少なかった人だが、子供というのはそういうのを当たり前の条件と思って育ってしまう。


だから、この、父の死後の「後悔に似た気分」の正体は、もう一つ焦点を結ばなかった。私はそれを、3年間週末ごとに彼を見舞っていた時間が不十分だったのではないかと思ったりもしたし、最近は父が生きている間に子供を作らなかったことに理由があるのかも、と推測したりした。しかし、どちらも、あるいは他の思い当たりそうな要因も的を外している感触があった。


昨年から、配偶者の実家で不幸が続いて、その中に、ちょっと中途半端な立場で身を置きながら、私は取り立てて突っ込んで考えたことも無かった自分の父の死とそこにまつわる不思議な感情を思い返していた。先月、義理の祖父の亡骸を納棺した時、葬儀社の方の、作法にのっとった整えを親族で見守っていた中に、昨年小学生で父親(私から見れば義兄)を無くした姪がいて、彼女のまなざしを見ていたことを思い出したら、ふっと、自分の父の死に対する感情が理解できた気がした。


要は私は、自分の父が、死ぬものだとは、一切思っていなかったのだ。父が生きていながらどんどん衰えていっていた時もそうだったし、実は父が死んでからも、どこかでそれを十分に信じていなかった。変な言い方だけど、正確に言えばそういう事だと思う。そして、実際のところ、私は、未だに父が死んだことを、本当の本当には信じていないかもしれないのだ。


だから、それは後悔、というよりは腑に落ちない、という感覚に近いと思う。私は父の死の風景を、克明に覚えている。父の死から9ヶ月後に書き留めたエントリがある(参考:id:eyck:20050814)。この文章と、克明さにはやや劣るが地下鉄サリン事件に遭遇した時のエントリに共通項がある(参考:id:eyck:20070731#p1)。細部がくっきりとしていながら、そこに一種の感覚の麻痺がある。自分の感覚器官が伝達してくる情報から、自分が隔てられていて、ただ情報だけをストックしていて処理していないような手触りだ。


勿論、父の最後の半年は、流石にこれは長くないな、と思いもしていたし、実際そのような事は家族の間で口にしていた。だから理性の部分では父の死を十分に予想していたし、葬儀では焼かれた父の骨を拾いもした。納骨もして、一周忌は家族で墓参りもした。私の行動にも思考にも、まったく不整合はなかった。自分でも、父の死はごく普通に受け入れていた気になっていて、だからこそ自分の感情は、なにかしらの形の「後悔」なのだと思っていた。それに合わせて、後悔の原因になりそうなものを時折考えていたのだと思う。


だが、違った。私は、どれほど目の前で言葉を失い記憶を失い痴呆化が進み口から物が食べられなくなり痩せていった父を見ていても、彼が「死ぬ」ということを、心の中核では考えもしなかったし、実際に父が死んでその遺体を見て葬儀で焼いて骨を拾い納骨しても彼が「死んだ」ということを、多分、信じていなかった。


私は、死を、常識の範囲で理解した気がしていたし、事実一般論としては理解している。だが、実際の、現実の、個別の「死」に対して、そんな理解の無意味さが露呈する。なおかつ、そのことに気づくのに、実の父の死から4年以上も時間がかかっている。4年かかって、ようやく見えたのは、私には死が理解できていないし父の死も理解できていない、ということだけだ。先日、配偶者に「自分は父が死ぬって本当には思っていなかった」と言ったら、彼女に「あなたは今、いずれお母さんが死ぬってことも本当には考えられていないでしょう」と言われた。当たっている。父は死んだのだろうか?私はいつか死ぬのだろうか?


はっきりと言えば、私は、多分、内心「まさか」と思っているのだ。