美術のさいたま/経済のさいたま(1)

・信用を、価値の共同化として捉えてみること。信用の崩壊(括弧つきの)とは、複数の人間が、相互に「同じ価値を共有していると振る舞う」態度の不成立であり、自分以外の誰かが、自分の信じている価値を、自分が信じているようには信じない、という状況のことだろう。このような状況に、芸術に携わるものが無関心でいるのは可能なのか。勿論、芸術家は自らの信ずる価値を共同化しない存在なのだ、という信仰は、それ単独で相応の強さの幻想の体系として存在しており、この幻想をシェアしあう人々は、例えどのような信用体系の弱体化が始まったとしても、その騒ぎから自らを隔離することができるのかもしれない。


・そこでは、その幻想の体系こそがある種の経済圏を形成していることが無視されるが、そのこと自体はさして問題ではない。個別の価値が、あらゆる関係性から切り離され、スタンドアローンで存在しうるという、ほとんど金本位制のような反動として思考を停止させてしまうことが警戒される。金に価値があるのはなぜか?それは金に価値があるからだ。こういう態度に、「芸術家は自らの信ずる価値を共同化しない」という“美しい”表明は似ていってしまう。価値を共同化しないという価値の共同化。


・簡単に言ってしまえば、価値は、信用の体系に先行して存在もしなければ、後から遅れてやってくるわけでもない。それは、ありとあらゆるレベルでの信用の体系と即時的に/同時的に存在する。力の作動における、作用と反作用の関係のように、けっして共同化できない価値とは、共同化された信用の体系と正反対の方向に、同じ強さで成立する。反作用が作用の集合から漏れ出したりしないように、共同化できない単独の価値は、共同化された価値の体系=信用から漏れ出してきたりはしない。


・反対からも考えよう。共同化できない単独の価値を否定するものが信用ゲーム-誰かがそれを信じている間だけ信じ、最も多くの人がその信用に加わった瞬間を見計らって「一抜け」する遊び-を繰り返すことは早晩その前提となる信用ゲーム自体を成り立たせなくなる。最も得をするのは最も的確に裏切りを働いたものである、ということはゲームの参加者全員が裏切り者になるということであり、そこでの疑心暗鬼はごく当然のなりゆきとして信用の体系を消去してしまう。最後の大きな「一抜け」ゲームが20世紀後半にアメリカで行われたあと、美術と言われるテーブルからは賭場の賑わいが消えて、残ったのはその日限りの詐称とはったりだけで日銭を稼ぐ者だけになった。


・デイ・トレーダーの狂乱するショートサーキットのばか騒ぎを軽蔑するものが、20世紀初頭、あるいは18世紀、15世紀、あるいは紀元前、原始時代と、ひたすらに遡行するマラソンコースを選択した。そこに質的差異はない。とりあえず、黄金時代のラスベガスのカジノは消えたのだ、とは言ってみよう。我々が今細々と通うのは、巨大なイオンのショッピングセンターでなければ貧しいパチンコ店であり、そこでアニメやゲームの声優達が叫ぶ確立変動のサインを騒音と誤解しかねないような静寂の中で待っている。等価交換どころの話ではない。1円パチンコをいじましく打って、幸運な日には何枚かのコインを薄暗い窓口で通貨に換金する。この「さいたま」的光景。


・だとするなら、証券街を流れる情報を冴えない顔で見るギャンブラー達のしらけた姿を切り捨てる態度は、むしろ自己の認めがたい部分を彼等に投影して排斥しようとする行為にイコールとなる。ある日、2機の旅客機が、滑らかに青空の下の2つの塔に吸い込まれていった美的な映像のように、甘いナルシズムを重ね合わせることができるほどそれは「芸術的」な風景ではない。この、興奮を欠いた状況こそ、本来的に言って美術、あるいは芸術のリアルな風景なのではないかという恐怖は、ますます「芸術的」な人々を意気沮喪させるだろう。それでも、実は崩壊などどこにもない、というのも更なる興奮の値引きに見えるから、あえて崩壊とか言っているのか。じつはそれは整理と再構成でしかないとして。(続く)