美術のさいたま/経済のさいたま(2)

・美術を、「美」という言葉だけではなく、「価値」と捉えることで、いわば「美」の外から美術を思考する可能性。フェルメールを見て私が感じた価値は、けして誰とも共有されない。私がその時感じた、絵の具の粒立ち、複雑な反射、画面内部でのうごめくような光の関係性、誘導される視線、それにあらがいたくなる生理。こういった感覚は、他の人に説明しようとしても説明できないし、ましてやそれを他の人に追体験させるわけにはいかない。さらに言えば、8年前私が感じた「リュート調弦する女」に感じた価値と、先日同じ作品に感じた価値すら共有できない。さらに微分すれば、一分前にみた「リュート調弦する女」の価値と一分後に見る「リュート調弦する女」の価値も共有されない。


・しかし、同時に、私がフェルメールを見る事ができたのは、遠いヨーロッパからそれを膨大な手間と資金をかけて運搬し公開しようとした人々がいるからであり、さらにいえば長い間きちんとフェルメールを保存して来た所有者がいたからであり、近代に改めてフェルメールを再評価する人がいたからだ。そして、私は、やはり8年前と同じく「リュート調弦する女」を素晴らしい、と思う。そこにはフェルメールの作品の持つ価値の共有=信用がある。だから、価値の共有は不可能でありかつ不可避なのだ。前者の価値と後者の価値は異なる。だがまったく峻別もできない。それは事実上深くリンクし、半ば一体だ。それを切り分けようとする態度こそ形而上のものだ。


・現代美術は、こういった価値の共有=信用の形成それ自体を主題化した。いわば、上記の「価値の共有化」をメタ的に再検討し脱構築し続けてきたのが、現代美術といわれるものの核心だ。見ようによれば、常に意図的に恐慌を作り上げ、常に株価を暴落暴騰させ、常に価値のインフレーション/あるいはデフレーションを加速させ続けてきたのが現代美術なのであって、それを改めて市場化していった1970-80年代以降のかっこつき「現代美術」は、一部の意識的だった(シニカルな)作品を除いては、単なる「つまらない商品」でしかなくなった。その歴史の忘却のスピードは恐るべきで(ジャッドやコスースなどだれも覚えていないのだろうか)、商品のカリカチュアでしかなかったファッショナブルな「アート」は、いまや3流のエンターテイメントとして遇される。


・こういったレヴェルであれば、その現況はおおよそ推測される。アメリカのアートマーケットは?ヨーロッパは?アジアは?現代美術が売れていたという韓国はまさにいまウォンが暴落し続け(かつての通貨危機時の1500ウォンラインが目前だ)、イギリスは金融機関の国有化を進行させ、ドイツは民間企業の救済に失敗し、金融立国アイスランドは破綻した。ドバイでの建築ラッシュは維持できるのだろうか。上海・北京は?そんな中で、日本だけが奇妙な鈍さを見せている。そしてこの鈍さこそが、ふしぎなベールとなって日本を覆っている。この、どう捉えていいかわからない鈍さ。


・日本という社会体は世界の中で「さいたま」であることに、いつしか諦めともつかないような形で腰を落ち着けてしまったように思う。それは、自発的な選択というよりは、他に選びようがなかったといった方が正確であり、しかもそれは、非-自発的であるが故に内面化されざるを得ないものだったのではないか。そして、更に話を進めれば、日本はまさに「さいたま」であったが故に、「東京」=アメリカの失敗からわずかな距離を保持し得たのであり、この先見えてくるのは、世界の「さいたま」化なのではないか、ということなのだ。ライブドアの事件が思い出されるのは、国内ではネオリベラリズムのかけ声の真っ最中に起きた一種の反動の象徴だったということであり、しかもあそこで反動したことが、期せずして、おそらく、何かを“守ってしまった”、という事なのだと思う。そこで“守られてしまった”のは、おそらく美術やサブカルチャーを含めた、大きな何かだったように感じられる。


・このことは、けして経済のサイクルの鈍化や停止ではない。ある意味、それはいままでより遥かに過酷になるだろう。少なくとも「世界水準」なるものを仮構して、そこから「日本ローカル」を批判するという、ごくシンプルな、それでいて過去長く日本の美術の分野で延々延命してきた価値生産モデルが有効性を失うということであり、それは同時に「世界水準」を攻撃していれば何かしら言ったことになったというモデルも失われることになる。我々には常に外部があった。啓蒙的にであれ批判的にであれ。そういった外部は消失するか希薄化するかもしれない。経済の失敗というよりはむしろ完成のプロセスとして。


・「さいたま」は豊かな地域文化やストックで守られた場所ではない。同時に最も苛烈な競争が行われる場所でもない。焦点の定まらない田舎があり、焦点の定まらない住宅があり、焦点の定まらない産業があり、焦点の定まらない文化がある。そこでは時折面白いことも起きるが、あくまで「さいたま」的であることから逃れられない。そして、驚くべき事に、そこでの「価値」は、「さいたま的」であるからこそ保持されてしまうのだ。マンガやアニメの価値はその「さいたま」性であり、声優やj-POPの人気は「さいたま」的なものであり、日本文学も映画も世界の中で「さいたま」的な魅力を発揮し続け、一部の先端的な美術や映画、批評すら「さいたま」的特殊性の徴として存在するだろう。ここでの「さいたま」性は、過去のオリエンタリズムの反転した「奇妙で神秘的な国・ニッポン」という泊付けではない。我々は、アニメ「らき☆すた」で描かれた「さいたま」的なるものにくるまれ、守られ、穏やかに安心しているのだろうか。しかし、もちろん、「らき☆すた」の幸手の大地には、死の視線が埋め込まれていたのだ(参照:id:eyck:20080605)。(続く)