上野の森美術館で「Art of our time」という展覧会を見て来た。「高松宮殿下記念世界文化賞20周年」というふれこみの割には、なんというか、けっこうラフな感じの展覧会で、作品の質もかなりばらついているし、展示もざっくりしている。


私はこういったカジュアルな展覧会は嫌いではない。妙にショーとして完璧が目指された展覧会というのは、その「完璧さ」自体が無用なノイズになって作品へのアクセスを難しくする場合があるからだ。まぁ、「芸術の世界のノーベル賞に」みたいな意気込みもかつて聞こえた賞制度を記念する展覧会としては、若干雑駁にすぎる、という見方もあるだろう(ノーベル賞受賞者の記念講演がどこかの小学校の講堂で適当に実行されたような感じ、といえば伝わるだろうか?)。可能なら、各受賞者のマスターピースを集めて展観されるべきだった、というのが正論なのだろうけど。


1Fの会場に関して言えばデ・クーニングの、画家としての力量が、その地味な作品にも関わらず一歩抜けて見える。タピエスやキーファーの作品は、1枚の絵としてデ・クーニングと対等に勝負できていない。デ・クーニングの作品の良いところは、白を混色した絵の具が、彩度を落とさず、かつ絵の具のボディも十分豊かな状態で鮮やかに定着させられている点で、たしか1968年か9年の作品とクレジットされていたように思うけど、まるで昨日描かれたかのようにフレッシュに見える。このようなフレッシュさは、安直に実現してしまおうと思えばひたすら安直にできるところがあって、要するにどばっと思い切りよく絵の具を広げて画面内のバランスを整え、それっきり放っておいて途中の段階で終えてしまえばよかったりする。


デ・クーニングの作品が、そういったイージーなものを感じさせないのは何故なのだろう。このポイントを比較検討するのに適当なのがやはり同じ部屋に展示されているザオ・ウーキーの作品だと思う。この人の作品はブリジストン美術館でも何度か見ているが、ある種のフレッシュさは持ち合わせながら、どこか安直な感じがしてしまうのだ。


デ・クーニングとザオ・ウーキーを見比べて思うのは、イメージ、というものに対する接し方に違いがあるのではないか、ということだ。ザオ・ウーキーは、とても冷静に画面内部の秩序を統一的視点から統御していて、その統御の根拠が、映像的というか写真的なビジュアルの生み出す空気感なのだと思う。ザオ・ウーキーの作品には明らかに「ここからこう見るとベスト」という鑑賞者の立ち位置が決められていて(そこが作家が作品を統御していた点だ)、だから作品が、だれが見ようと作家の想定したエフェクトしか生み出さない。もっと踏み込んだ推測をすれば、ザオ・ウーキーは明らかに描いている途中で完成を措定していて、そこに向かってだけ道具としての絵の具の「フレッシュさ」を利用しているように思える。


つまりザオ・ウーキーの「フレッシュさ」は狙われたフレッシュさであり、「フレッシュさ」のイメージでしかないように思えるのだ。その点、デ・クーニングには、明らかにザオ・ウーキーのような、クレバーな計算や勤勉さがない。ほとんど作品意識があるんだかないんだかわからないような描き、絵の具に埋もれてしまうようなぐちゃぐちゃとした描く行為が全景化していて、そこに完成、というか着地点が想定されていたように見えない。


言葉だけで見れば、「いいかげん」なのはデ・クーニングであって、結果安直になるのもデ・クーニングのように思われるだろうが、そうではないところが絵画の面白さであり難しさなのだと思う。ザオ・ウーキーは「イメージのイメージ」しか描けない。しかしデ・クーニングは「イメージそのもの」が現前する。違う言い方をすればザオ・ウーキーの画面には「出来事」がなくてデ・クーニングの画面にはあるのだ。


こういう言い方をすると、じゃぁ目的意識も作品意識も捨てて絵の具遊びをしていればいいのか、という話になるかもしれないが、そうではない。実際に描いてみればいい。そのような「子供の遊び」をしてみれば、絵の具は混濁したちまち彩度を失い画面は不活性になる。デ・クーニングの作品は、彼の描くという行為がいかに高度な複雑さを織り込んでいるかの痕跡となっている。そこには統一的な統御を許さないような様々な知覚や不測の出来事が排除される事無くありながら、なおかつ色彩の鮮やかな繋がり合いが実現されている-こう書くと間違いで、色彩を含めた様々な出来事が混濁し正体を見失わないように、極めて高度なレベルで「いいかげん」に描かれている。


技術者として、クールに、誠実な姿勢で想定される観客にしっかりサービスするザオ・ウーキーはイラストレーターでしかない。そんな事を度外視して、単にキャンバス上で起きる状況だけに集中しているデ・クーニングこそ画家なのだ。


●Art of our time