「Art of our time」展は、他にも意外な作品に出会えた、というか高松宮殿下記念世界文化賞、というものを全然知らなかったことに気づいた。ブリジット・ライリーとか、アンソニー・カロなんかが受賞していて(つまり作品が展示されていて)、妙に感心してしまった。ブリジット・ライリーの作品は、最も緊張感のあふれたものではなかったけど、その分この作家の、基本的な「趣味」のようなものがはっきり出ている作品だったと思う。その「趣味」とはラインのリボン状のうねりの繊細さであり、隣り合う色彩の、微妙な中間色の優しい感じだったりする(そう、このライリーは目への攻撃性があまりないのだ)。こういう「趣味」の出方はそのまま「弱さ」にもなりえるもので、意地悪に言えば保守的な絵画性に頼ったものになっているのではないか、とも見えるけれども、そのノーブルな佇まいには作家の人柄の魅力のようなものを感じた(やはり私は弱い作品だとしか言っていないだろうか)。


サイ・トゥオンブリの作品が2点見られたことは嬉しくて(こんな人も受賞していたのか)、私はつくづくこの作家が好きなんだなぁ、と再確認した。この2点の質の差異は重要だと思う。「ディオニュソス」とされた比較的近年のものは、作品中に「ディオニュソスDionysos」の文字が見える。対して古い作品には、自分の(つまりトゥオンブリCy Twomblyの)名前がある。片方はギリシャ神話の神の名前であり、もう片方は作家自身の名前だ。どちらも作品の外部のイメージを文字を通して画面内に引き込んでいることになるが、「ディオニュソス」という「大きな物語」を引き込もうとする姿勢に、作家の衰えの徴候を見ないわけにはいかない。どのような形であれ、こういう一種の「文学性」への傾きが後年のトゥオンブリのつまらなさだろう。もう断然、自身の名前だけで成り立っている作品の方が良いものだと思う。


リチャード・セラの、鉛をロールした作品は今回の出品作の中でも最も良い作品だと思う。こういうインストラクション(「巻く」という事前の決め事があった上での作品だ)にそって淡々と作られた、どうってことないスケールの作品が、セラの中では最も良い。どうして巨匠になってから、セラはあんなスペクタクル・ショーをやるようになってしまったのだろう。巻かれた鉛のシートは、表面がぼこぼこしていて、自重のせいと思わせるゆがみを見せていて、カーペットの床に少し沈み込んでいる。おもわず蹴っ飛ばしたくなるような、微妙にしょぼくれたような佇まいが、軽いおかしみを感じさせる。こういう、乾いたユーモアの感覚があるのが「小さい」セラの作品の魅力だろう。カーペットに「これ以上近寄るな」という意図が感じられるガムテープのようなものが作品の四方に張られていて、これはちょっと、と思わさせられた。エレガントに、とは言わないものの工夫の余地があったとおもう。


バルテュスの作品は、その少女像の顔の幽霊的なぼかされ具合が印象的だ。黒沢清的、と言いたくなる。「CURE」の冒頭、砂浜に遠く小さく映っている萩原聖人は、よく見ると顔だけがぼかされている。この映像の「怖さ」は生理的なものだ。同じように、と言っていいのかわからないが、バルテュスの、手や体の描きは子供の絵のように稚拙なのに、その「顔」の「描かれていなさ」によってこの作品は異常な存在感を持つ。さらに言えば、光のコントラストのあり方がまた非日常的で、たぶんこういう光の感覚はバルテュスの深い所にあるシュール・レアリスムによって形成されているのだろうけど、こういう絵を個人で持っていて部屋に飾っている人がいたりしたら、ちょっと並の神経でではないと思う(関係ないけど、建築雑誌とかで人の顔だけぶらして室内空間を撮った写真を良く見るけど、私はああいう写真が心底怖い)。


この展覧会では別室で受賞した美術家達の写真が展示されているのだけど、こういうのを見ると、美術家って、どんなに成功した人でも基本的に労働者なのだなぁ、と思う(まったくそう思わせないバルテュスみたいな人もいるにはいるが)。ロバート・ライマンのぶらぶらとした感じとか、セラのかがんで作品をじっと見ている感じとか、その所作は、ぶっちゃけ自分や自分の知っているけして有名とはいいがたい作家達とかわらない。才能、というものはもちろん残酷にあるわけだけど、その残酷さというのはけして成功した人に優しいものとは限らない筈で(よく誤解する人が多いけど、才能、というのはその持ち主を支配し拘束する厳しい条件なのだ)、しかし、作品を作ってゆく基本的な幸福、というのは作り手にわりと普遍的に訪れるものなんじゃないかな、と思ったりした。