先週コバヤシ画廊で野沢二郎展を見てからもう1週間たってしまった。会期は既に終わっている。ここ数年の、同じ会場で毎年展示されてきた野沢氏の作品と、今回の展示は明らかに異なる点がある。その一つがサイズだ。例えば昨年の展示では4メートル超の作品があった(参考:id:eyck:20071010)。2枚のパネルを接合して作られた大画面が会場正面に置かれることが多かったのだが、そのフォーマットが消えて単体のキャンバスでどの作品も構成されている。最大のもので200号くらいだっただろうか。昨年までバックヤードにまとめられていた小品も、1点メインの空間に展示されている。おおまかに言って、画面面積が小さくなったといっていい。


このフレームの絞り込みによって、作品画面は「トリミングされた」かのような構造を持つ事になった。例えば、昨年のような4メートルの横長の大画面は、ごく自然にある種の全体性を獲得する。見るものの身体を飲み込むようなスケールは、それ自体が大きな、しかしまとまりのある空間として立ち現れる。それが今年の「小さな」画面-もちろん200号が小さいわけがないけど-では、いわば画面に描かれている物が画面外部にも広がり、まるでフレームを窓としてその一部を覗いているかのように見せている。


次に目につくのはマチエールだ。加工したスキージを使う野沢氏の作品の表面は、その多くで絵の具を載せては削った、荒々しい凹凸をみせていた。近年、このマチエールが平滑になりつつはあったのだけど、今回に関してはほぼフラットになった。あのかつての絵肌を知るものとしては驚くべきもので、そこにところどころ上からくっつけたように、ぺたりと盛り上がった絵の具がある。こういった、平滑なマチエールが、スキージによるストロークにスピードを与え、フレームの外まで(あるいは外から)逸脱するベクトルを持つ事が、上記の「トリミング」的感覚を更に補強していることは言えるだろう。いわば、野沢氏のストロークはその飛距離を大きく延ばしたのだ。


サイズや表面の物理的な凹凸の他に、外形上の変化の他に、いわば感覚的に大きく変化したと思えたのが色彩だ。近年、野沢氏の色彩は沈滞しひたすらモノトーンに近づいて来た。ことにその「無彩色」な感覚を強めていたのは、白のハイライトの大胆な使用に理由があると思う。彩度・明度のぎりぎりに押えられた深い藤色の上に、無防備という他はない混じり気なしの白が置かれた一昨年の作品などは、なまじっかなモノクロ絵画より強く「色彩の死」を感じさせた(参考:id:eyck:20061010)。


昨年はその白がなくなった分、鈍い青が色彩の再来を感じさせていたが、しかし、その「青」は、半ば褐色に埋没しようとしながらしきれず、表面に取り残されたような青だった。対して今回の野沢氏の作品には、再び白が現れているのだが、その白が、わずかに上から薄く色をかけられていたり、微妙にトーンが落とされている。このような操作により、白は他の色彩との関係性を画面内で適切に結び、結果部分的にある彩度の高い藤色をより鮮やかに見せ、それとの相互作用として「白という色」として生かされ、色彩として機能している(一昨年の「白」は、あまりに他の色彩を殺していていて、関係性を切断していた)。


フレームの絞り込みとストロークの長距離化、色彩の彩度の上昇は、その微妙な働きかけ合い、相互作用の中で、とても不定形な油と絵の具の、生々しいぬめらかさを、しかしどこか透明度を持って浮かび上がらせている。かつて野沢氏の作品を特徴づけていた深奥空間はフラットなマチエールとストロークによって“浅く”なり、その結果絵の具のマテリアル性が強調されている。ここが不思議なところで、トリミングされたような画面は一般的にイメージを強調するのだけど、ここではむしろ断ち落ちにされたマテリアルが強く前面にでるのだ。いや、こういう言い方も一方的なので、いわば「イメージ」が前に出ていた一昨年の作品と、マテリアルが析出されていた昨年の作品が、より高度なレベルで拮抗している、と言ったほうがいいのかもしれない。


もちろん、野沢二郎氏はそのような目的論的な思考をする作家ではない。官能的、というよりは「エロい」と言った方が適切なそのマテリアルとイメージは、単なる反復的作業はけしてしない、毎回画面に生まれて初めて向かうような野沢氏の、守りのかけらも無いアプローチの前に、否が応でも剥き身で吹き出してしまうのかもしれない。