Floating Odyssey展で見る事のできた南條敏之氏の写真は、奇妙な感覚を与える。アクリル板に張られた4点の写真には水面に映った陽の光が映っている。いずれも縦長のフォーマットで、上下に2点ずつ、少しずつお互いに距離を持って、壁からも少し浮いて展示されている。どの作品も周囲は暗く、うっすらと水底の石などが映っていて、おおよそ中央に川面に反射した太陽光が白く定着しているが、この光は、水面の揺れを反映してか、白に近いところから、かなり薄い、半透明とも見える箇所まで、何層かに分かれ、ぶれて重なっている。この重なり合いが少し離れてみるとボリュームに見えてくる。


もちろん光の層がそんなに構築的に面をなしているわけではないのだが、逆にそれ故に、はっきりと輪郭をもたない、幻のようなマッス(量)が見て取れるのだ。このマッスは閉じていない。ばらばらの面が複数重なったため、たまたまそのように見えた、というようなマッスなのだけど、かといって単にベールを薄く積層させただけの単純なレイヤー構造とも異なる。各層は曖昧な領域を持ち、傾き、歪みながら相互に貫入しつつ相反している。また光の反射の像と、その周囲の水面や映り込む水底の層は質的に分離していないから、このボリュームは周囲から完全には分離していないが、かといって同じレベルにあるわけでもない。


私は以前、南條氏の写真を線的な「デッサン」として捉えたことがあるのだけど(参考:id:eyck:20080130)、今回の作品にはどこか彫刻的な、しかし単なる実体的な彫刻の多くとはことなる知覚上の複雑な空間の立ち上げに成功した想像上の彫刻のような感触がある。南條氏の作品は水面に映った陽の光というモチーフから離陸して、作品それ自体が立ち上げる複雑さと強度を獲得している。もちろん、南條氏の写真は対象から切り離されたわけではない。むしろ、対象と適切な関係(それを「対等」と言ってしまうと語弊があるかもしれないけど)を作り上げていることがこの作品の魅力だ。世界を注意深く観察しながら、そこに抽象的な何事かを読み取り、改めて布置しなおしたものを「作品」と呼ぶのなら、南條氏の写真は確かに「作品」として立ち現れている。


この立ち現れは、南條氏固有の“文体”ともいうべき精度を持っているように見えた。いわゆる写真家といわれる人が見たら反感を覚えたりしないのだろうか?というくらい、南條氏は写真というメディアを道具としてクールに取り扱っている。というよりも、実は意外なくらい「写真家」である南條氏その人のことを考え合わせると、やはりこれは「作品」がもたらす感覚なのだろう。今回の作品は、そのなんとも言えない、強すぎず弱すぎない光の面の重なり合わさりが、画面を複雑に分割しつつ包括もされた不思議な多様体としていて、モチーフとなっただろう実際の川面と光よりも、おそらくずっと面白い。例えば即物的にこのモチーフに見いだされる「面」は、水面、水底、映り込んだ太陽とざっくり数えられるが、作品中に現れた「面」は遥かに多い。露光時間中に揺らめいた水面が映っているのだから、それらもモチーフのものではないかと言ったとしたら、それは転倒した錯誤となる。


そのような微妙な揺らめく面は南條氏の作品から立ち上げられたのであり、そこから遡行してモチーフを想像したときに初めて言えることであって、要するにそこでは作品が現実を構成しているのだと思う。ちょっとピンポイントすぎて、展開としての広がりに対するリスクが脳裏をよぎることも否定できないが、今回の作品のような豊かさを一貫した姿勢から生み出す南條氏の仕事には、当面そのような心配は不要かもしれない。展覧会は終了している。