今、ちょっと心が弱っていて、またクレヨンで描き始めている(私は心が弱るとすぐクレヨンに頼る)。安くて厚いスケッチブックを買って、小学生の使うサクラクレパスでぐりぐり?描いている。クレヨン/クレパス/パステルは一時期いろいろと試した。ヌーベルの四角いハードパステルとかレンブラントのソフトパステルとか。それぞれに特徴があるし、高価なものは発色が確かに良くて乗りが堅牢だ。ハード系でも紙にひっかかりにくいとか、細やかな中間色が揃えられていて混色できないパステルの不自由さが補われていたりもする。オイルバー状のものはどうも合わなかった。油の質が気に入らなかった。私は粉に刻んで水で溶かすようなことはしなくて、いきなり紙にどーんと載せて、必要に応じて指で延ばしたりしていたのだけど、こういう使い方をするとなんだかんだ言ってサクラクレパスが一番いい、ということになってしまった。


要するに私の描き方がそもそも幼稚園や小学校で教わったことを延長しているから子ども向けの画材が合うに決まっていたのであった。ここで過剰にノスタルジックな言い方で「クレヨン」を持ち上げても意味がない。とはいえ、どうしてもクレヨンにはしゃぶったり嘗めたりしたくなる甘美さがつきまとっているし、こういう甘い記憶がなければ「クレヨンで描きたい」なんていう欲望は刺激されないと思う(そういえばそういう恥ずかしさを全開にしたエントリを描いたことがあった。参考:id:eyck:20040517)。同時に、今クレヨンを持てば自動的に子供時代に退行できるというほど年齢というのはイージーなものでもない。もう少し言えば、子供と同じように勢いで身体のパターンを反復するような単純な発散をしても、そんなのはあっという間に飽きる。


クレヨンは確かにどこか未分化なところに私を連れてゆく。それには例えばやたらと延びる材質(紙に載せたクレヨンを指でこすると、周辺に顔料が溜まって真ん中は薄くなったりする)とか、不十分とはいえ色が混ざる(サクラクレパスはそういう特徴が在る)とか、ストロークの輪郭が曖昧だったりとか、実際的な理由がある。こういう、私を幼児的な感覚につれてゆく特質を見ながら、なおかつ飽きのこない、つまり今の自分の精神が伸びやかに楽しめるような一定の抽象性や論理性をどう組み合わせていけるかが一番エキサイティングなところになる。今の私にとっては、まずはビビッドな色彩の構成が最初の動機になっている(キャンバスではそういうことをしていないので)。さっきも描いたけど、サクラクレパスは黄色を置いてから青を重ねると緑になるから、そういう遊びもできる(注意しないとあっちこっちで色が死んでしまったりもするのだけど)。あと、枚数を描いてくると出てくるのがストロークの質の問題だ。


これは多分に紙にも原因があるけど、クレヨンで引くストロークには絵の具や鉛筆とは異なる性質が在る。鉛筆や絵の具と異なって、クレヨンは紙から離さないかぎり相当長い時間延々と描いていられる(原理状1本つかい終わるまで1本の線が引ける。鉛筆でも可能じゃないか、というのはもちろん勘違いで、けっこうな頻度で削る必要がある)。だから、どこで紙から「離すか」というのが主要なポイントになりうる。筆圧がかなりストロークに反映するから、線の入りと抜きに性格が生じる。それを意識することで、逆にぴたりと止めたり、きっちり始めたりすることもできる。また、同じ所を延々こすっていると、そこに多くの顔料が溜まって、あとから別の色を重ねると大幅な混食が起きる。


こういうことを見ていると、色彩と同じくらいの比重で、ストロークが画面をどこかに誘導し、状況を構成してゆくプレーヤーになってゆく。そういえば今年の前半に、ボールペン、サインペンやマジック、色鉛筆で植物を描いていた時は、ストロークが基本的に均質なのであくまで線の引き方は1本の線に1つだった。だから目の前の具体的な物の形態と、そのペンの線の質の接点を探るような描きに興味が集中していたのだけど、クレヨンの場合はむしろ線そのものが複雑で幅があり「豊か」なので、それだけで自立した課題として見えてくる。こう思うと、クレヨンというのは相当高度な画材なんじゃないかと思えてくる。紙に関しては、これはクレヨンのチョイスと同じ話で、幼い描きをしているのだから、妙に色味のあるブレダンやら厚いハーネミューレなんか使ってもオーバースペックに決まっている。とはいえクロッキー帳では薄すぎて強度が耐えないから、いわゆる「スケッチブック」が一番適当だった。