・子供の事が覚えていられない。数日前の事が覚えていられない。子供は、ほんの少し油断しているとするりと変化している。昨日までしていなかった事を今日している。おとといまでしていたことをもうしていない。していなかったことをするようになって、していたことをしないようになった時、していた時、していなかった時のことが思い出せない。


・例えば、今平気な顔をして歩き回っている子供を見ていて、夏に寝返りしか打てなかった彼を思い出すことができない。さらに春先の、寝返りさえ打てずベッドの中で手足をばたばたさせているだけだった彼を思い出す事ができない。もちろん、何もかもが真っ白、というわけではない。写真はたくさん撮ったし、部分的にはデジカメの機能を使って撮った動画もある。母体が付けているメモもある。


・それらの記録を見れば、いつ頃、何があったかは知ることができる。だが、私が思い返せないのはそういった記録に残ることではない。子供が歩けなかった頃の「あの感じ」、子供が動けなかった頃の「あの感覚」が思い出せない。


・「あの感じ」「あの感覚」とはなんだろう。分かり易く言えば、映像に残らない体重とかだろうか?しかし、こういって分節できるものは、難しいとはいえ多少は思い出せるのだ。9キロを超えた今の子供とは違って、4キロに満たなかった頃の彼の「あの重さ」は、多少は思い返せる。これが「におい」や「声」だともうさらに思い返すのが難しくなる(においはかなり怪しい)。それでも、どこかに材料が残っている。


・だから、私が思い返せないのは、そういった個々に分節できるものではない、それらを含みながら、しかしそれらがごく一部でしかないような、全体としての「あの時間」であり「あの経験」なのだろう。


・5月初旬、まだ寝返りも打てなかった子供を1日みているのが辛かった。とうてい家の中にこもっていられず、隙を見つけてはベビーカーに載せて散歩していた。彼が公園で、ジャングルジムや滑り台で遊ぶ小学生を見て、けらけら笑っていた、その「光景」は思い出せる(携帯にムービーが残っているし)。しかし、動けもせず危ないこともなかっただろうその頃、何が「辛かった」のかがまったく思い出せない。


・労力としては、離乳食が3回食になってそこらじゅう手を伸ばしてばんばん物を落としては何でも口に運ぶ今のほうが、よっぽど大変な筈なのだ。寝ているだけの子供を見る事の何が辛かったというのか?ぐずりが酷かっただろうか。しかし、うちの子供は比較的良く寝て、見やすい子だとあちこちで言ってもいたのだ。動かず、四六時中何かをしなければならないわけではない、しかし目をはなせないという、独特な閉塞感が辛かったのかもしれないと、推測はできる。しかし、それはもう「あの頃」の「あの感覚」を思い出せることとは違う。それは分析であって、経験そのものの再帰ではない。