・携帯電話が壊れてしまいました。昨年から相当怪しかったのですが、先週電話として機能していなことが判明しました。キャリアの窓口では、普通は出来る筈の新しい機体への電話番号/メールアドレスの移行もできない、と言われてしまいました。というわけで、現在の携帯のアドレス帳はすっからかんです。気が向いたときでけっこうですので、私の友人・知人の方、永瀬までご連絡いただければ嬉しいです。当方の携帯メールアドレス・携帯番号は不変です。

※「組立」関連の連絡先は控えがありますので、問題ありません。


・携帯電話がもうダメだ、と思うにはずいぶん時間がかかっていて、ふと気づくとそれは電話ではなくなっていた。普段どのくらい携帯を使っていないかを証明してしまったのだけど、流石に登録してあるデータも引き出せない、と言われた時はボーゼンとしてしまった。


・そこには、まぁ、かける用事などめったにない、あるいは二度とないだろう番号が相当数入っていた。しかし思い入れみたいなもののある番号やアドレスというのがある。だから、それは、携帯のアドレス帳であるのと同時に、一種の思い出や記憶のインデックスになっていた。稀に用事が出来てアドレス帳から必要なデータを探すたびに、今は縁がなくなってしまった人や、ほんの1、2回だけ話しただけの人の名前を見て、一瞬だけその人のことが思い起こされる。別に感傷にひたるとかそういうことではなく、モニタを流れる名前のリストを見るだけの間、その人が想起される。こちらの意志とは無関係に、名前を見ればそうなる。


・名前は深く、その人個人と一つになって、特定の、交換不可能なイメージを喚起する。だから、例えめったに話さない人だったり、もう縁遠くなった人であっても、そこにリストがありさえすれば、閲覧するたびに、瞬間的とはいえ繰り返しその人自身の、なんというか、雰囲気みたいなものがふっと、頭の中に発火していて、それだけでその人と「縁」が細くても維持されていたような気がする(このとき重要なのは「思い出す」ということで、実際にその番号やアドレスが生きている必要はなかったりする)。


・それが気づいたら死んでしまっていて、ということは事実上、実際につながりが在る人以外との接点はなくなってしまったということで、もちろん必要があれば回復できるものだってあるわけだけど、むしろこういう時決定的に失われたのは、リアルに接点の失われた人のリストで、接点はないのだから何も「困る」ことはないのだけど、私はなんだか悲しくなってしまった。例えもう数年会っても話してもいない人で、今後も話すことは無い人であろうと、きっと私は月に数回、携帯電話のアドレス帳を見るたびに、その人たちのことを必ずイメージしていた。


・現実の人に会わなくても、名前には、たまに会っていた。既に離れてしまった人であっても、私の携帯のモニタにはその人たちの名前が繰り返し表示され、その都度、私の脳にはその人のイメージが浮かんでいた。それはきっと既に失われていた接点であって、今回のことは単なる事実の追認でしかないのかもしれないけれど、今私が失ったのは「事実」とかと同じくらいの比重で私の生活の中にあった(携帯電話のリストを見るという)「イメージとの出会い」で、この喪失感はなんだか時間が過ぎるほど大きくなってゆく。私はこんなふうに、いつの間に携帯に「感情」を仮託するようになっていたのだろうと考える。