ずいぶん前に、深夜のテレビで放映していた黒沢清「叫」をHDレコーダに録画していたのだけど、昨日になって、ふと見始めてしまった。この映画の力を実感するのは、1歳3ヶ月の長男がぴたりと画面を見て微動だにしないことで、落ち着きがない彼をこれだけ釘付けにするというのは、ちょっと驚きだ。彼はこの映画の文脈どころか「ホラー」というジャンルの吸引力や物語の構造もおそらく理解できないだろうから、ほぼ映像の力、あとはそこに付け加わった音響の力しか作用していないのではないか(勿論、親の欲望を内面化しているのだ、みたいな解釈は可能かもしれないけど、こういう解釈は本当に嫌い)。音響の力、と言っても、この映画は、例えば北野武の映画に比べれば沈黙しっぱなしの映画なのは確かだろう−そして、その沈黙に力があるのだけれども(北野武黒沢清の最大の差は音響への態度にある)。


「叫」で気になるのは、葉月里緒菜の演じる幽霊の顔だ。ロングショットでの「顔」と、アップでの「顔」が不連続なのだ。ロングショットでは、顔は大きく二つの相で現れる。一つは顔がない(見えない)層で、次が等身大の「人間」の顔として映る。そして、アップでは、美麗さを前面に出した(こういって良ければ究極の「美人」の)顔として出てくる。この、それぞれの「顔」が、ほとんどキャラクターの同一性を壊すくらいの落差で見えてくる。対して、もう一人の幽霊である小西真奈美にはこの不連続性がない。葉月里緒菜小西真奈美の性格(キャラクター)、あるいは撮影が異なるのは演出意図なわけだけど、葉月里緒菜の「顔」の不連続性は、この完成度の高い映画の中で、不思議なほころびとして感じられる。


顔がない人がいる、というのは、つまり存在してはいけない筈のものが/しかし存在してしまっている、というギャップに繋がっている。「CURE」の萩原聖人が冒頭、砂浜で遠く小さく映っていても顔がぼかされているように、あるいは「降霊」の子供の幽霊の顔が塗りつぶされているように。この「顔を消す」というテクニックは黒沢清の映画ではとても効果を上げている。対して、過剰に美麗に撮られるフルメイクの葉月里緒菜のアップの「顔」は、徹底的に視覚的であるしかない映画において(そこでは匂いや触感も視覚的に表現するしかない)、視覚以上の存在を見る物に与えようとする、一つの方策のように見える。そして、これは黒沢清のというよりは「映画」の問題なのかもしれないが、顔を消すという方策よりもあまり上手くいっていないように思える。


「なんでも映る」はずの映像、というものに、「映らない」という落差を持ち込むことに対して、「なんでも映る以上に余計に映る」ことで落差を作るというのは、意外な難しさを持っているのだろう。この映画には鏡が頻出して、そこに「余計に映る」という演出がされるのだけど、葉月里緒菜の「顔」に関しては、この手法が取られない。おそらく、葉月里緒菜の「顔」は、演出とか手法というレベルではなく、もうむき出しに、顔それ自体として撮られる必要があって、だからこそ黒沢清は破綻してでもぎりぎりまで葉月里緒菜の「顔」を、過剰に美麗に撮ることにこだわったのかもしれない。この、映画の視覚性というのはすなわち幽霊の視覚性でもあるのだろうけど、そう思うと黒沢清という人が「幽霊」というイメージに仮託しているものが想像できる気がする。


とはいえ、葉月里緒菜のアップの顔というのは、効果的とは言えないまでもそれなりに納得しうる。一番奇妙なのが、普通に全身が映った中で普通に見えている葉月里緒菜の顔だ。ざらっとした、荒れた湾岸の背景の中に、完璧なフルメイクでつるつるの肌とぱっちりまつげで登場する葉月里緒菜の顔はそれだけで笑いを誘う。なおかつ、「幽霊っぽい芝居」をさせられていて、これは完全に幽霊のキッチュだ。ここでの「顔」は、存在とイメージの視覚性の分裂の裂け目としての特異点を形成している。背景という、映画の基本的な存在の基盤となるものに対して、幽霊の「顔のない全身」は、存在してはいけない筈のものが/しかし存在してしまっている事を、「無い筈のものがあるが、その一部にある筈のものを消している」という二重の表現で織り込む。表象不可能なものをデッドポイントで表象するという、いわば古典的な手法と言える。対して、アップは背景そのもの、つまり存在の基盤を「イメージ」で覆い尽くし、存在とイメージの落差を無化してゆく。そのイメージが見事かどうか、という意味では葉月里緒菜のアップは奇妙な苦戦をしているのだけど(多分北野武ならこういう苦戦はしない気がする)、それはあくまで苦戦で、イメージで画面を覆ってしまえば破綻はしない。


存在と視覚性がどうにも折り合えず破綻しているのが、等身大の葉月里緒菜が背景に対して普通に顔を晒しているところで、ここで黒沢清の表現はあっけなく壊れている。幽霊は、この時の「顔」のせいで「幽霊のモノマネをする葉月里緒菜」になってしまって、だから作品中そこにだけ、生身の女優が出現してしまうのだ。この映画で葉月里緒菜の登場シーンだけ笑いが起きる、というのは要するにそういう事で、なぜ小西真奈美ではそうではないか、といえば、小西の幽霊は、幽霊性の困難(視覚的にしか存在しない幽霊が、しかし存在として存在している)を、全部葉月里緒菜アウトソーシングしているからに他ならない。ぶっちゃけて言えば、葉月里緒菜及びそのファンは、この映画に対して心底怒るべきで、それは例えば「LOFT」で安達祐実が驚くほど美しく撮られていることに彼女及び彼女のファンは心底感謝すべきであり、例えラストシーンの、湖底から引き上げられた安達祐実の死体が爆笑を誘うクオリティだったとしても、そんな事は些事であることと対照的だ。


黒沢清の幽霊の顔の破綻、というなら、黒沢清の死体の顔の破綻、というのも気になる。あれほど映画的テクニックを駆使し、見事な映像を撮っている黒沢清は、なぜか死体及び死体の顔に関しては冷淡というか無頓着で、上記「LOFT」最終シーンの安達祐実の死体の顔が「嘘でしょ」というほどマンガちっくな造形だったことにとどまらず、出てくる死体全ての「顔」の精度が低い。「REX」の恐竜並みに低い。あんな「顔」なら映さなきゃいいのに、という死体の顔もあっさり映していて、なにか(映画に出てくる)死体に対して、積極的な悪意があるのだろうかと勘ぐってしまう。そう思うと、「叫」葉月里緒菜の顔の美麗さ/美麗であるが故の破綻、というのは、黒沢清のいわば死体の顔に対する冷淡さの裏返しのようなもので、踏み込んで推測すると、黒沢清にとって葉月里緒菜は半ば死体と同じ扱いだったのかな、とも思えた。上記の“むき出しに、顔それ自体として撮られる必要があった”という記述とは正反対だけれども。