マンガ「げんしけん」を読み直した。以前、私はこのマンガでは、サイドストーリーをなしている脇役・班目の片思いの破綻を通して「友愛」が語られていたと書いたのだけど(参考:id:eyck:20070301)、そのときは主題が主人公・笹原の「恋愛」を通過儀礼とした大人への成長物語であることに対し、背景において図らずも「友愛」が表面化した、という書き方をした。しかし、改めて読むとやはり作者の木尾士目は「友愛」に意識的だったのかもしれない。そして、その「友愛」という概念が結晶しているキャラクターは(班目の片思いの相手である)春日部咲の恋人の高坂だと思う。


ここでの「友愛」とは、「もやしもん」について書いた時(参考:id:eyck:20090305)も触れたけれど、恋愛をその一部に含んだ、もっと大きな肯定的な感情のことだ。1対1の鏡像関係に閉鎖しない、多方向に開かれたイメージで、「げんしけん」や「もやしもん」といった、学生の中間集団(ゼミやサークル)を美しく描写したマンガにおいて(おそらくはゆうきまさみの「究極超人あ〜る」を祖形として)最も洗練された表現がされている。「恋愛」を否定するのではなく止揚していこうとする感情がマンガというメディアで特徴的に見えてくるのは、多分偶然ではない。現在ある種のマンガ(雑誌「アフタヌーン」周辺と言ってもいい)を取り囲む人々の想像力においては、恋愛は少し窮屈な器になりつつあって、そこでは恋愛のもつ官能性に満ちた交歓を含み込んだ、より広い想像力が模索されている気がする。


げんしけん」で高坂は、美少年でかつ最も濃い「おたく」であり、ゲームに関しては天才的な腕を持っていて若干天然ボケとして描かれる。役回りとしては前半の春日部咲とおたく達の衝突やギャップを接続し埋めていく存在で、いわば各物語のオチ担当として便利に使われる。だが、このおたく−非おたくの橋渡しをする、というポジションからのみ、彼の「友愛」的性格はもたらされるわけではない(後半にオチ担当を果たす朽木にその感覚はない)。高坂が持っているのは徹底した非-差別の精神で、だからこそおたくサークルに入ることを躊躇する笹原を「げんしけん」に屈託なく誘うことができるし、緊張関係にある咲と班目や笹原を同席させることに迷いがない。そして、この非-差別の精神の有り様は、友情と恋愛にも差別を設定しない。


この物語を通して読者が(そして作中数カ所で示されているとおり登場人物も)感じるのは高坂における「恋愛」感覚の希薄さだろう。いったい高坂は咲に恋愛感情を抱いているのか?答えは簡単で、高坂において中核にあるのは「友愛」であって恋愛はその一形態でしかない。同時に高坂の「友愛」は性愛を排除しない。いわば高坂は「友愛」の感情の延長、あるいはバリエーションとして咲と関係している。その内実は、原理的に班目や笹原を対象とした感情と質的に同じだ。しかも、だからといって高坂の咲に対する気持ちが薄いわけではない。


たぶん逆で、おそらく、高坂は一度「友愛」感情を抱いた対象は強く愛する。高坂が咲を十分「愛」していることがわかるのは咲が学園祭のコスプレショーに出演した時で、発見した盗撮者をなぐって突き出した咲の近くに、いつの間にか近寄って万一に備えている様子によってごくさりげなく描写される。ここでは、この「さりげなさ」、つまり積極的に描かないことによって逆説的に高坂の咲への感情の深さが表現されている*1


高坂の「友愛」が最も的確に表現されたのが咲のおこしたボヤ騒ぎへのペナルティで部室が一時使用不可になるシーンだろう。班目による“いじめ”で泣き出した咲に向かって、高坂は言う。

だから
時間がかかっても
現視研が再開できるのは
その流れがあるからだし


それに僕らが
咲ちゃんをいじめるのは


みんな
咲ちゃんが
好きだからだよ(「げんしけん」4巻P74)


ここで高坂が表現しているのは3つのレベルでの「友愛」だ。咲への「友愛」、「げんしけん」への「友愛」、そして班目と咲の関係、正確には最初から成就しないことがはっきりしている咲への班目の、届かない思いに裏付けられた二人の関係への「友愛」。おたくと異質な非-おたくがブリッジされて拡張されたサークル「げんしけん」のゆるやかな友愛の空間が咲の過失によって危機に面した時、高坂は「勘」を駆使してまで咲が責任を取る道を準備した(4巻P12)。能動性のない高坂が、作中「げんしけん」に対しアクティブだったのはこの場面だけだと言っていい。


だが、高坂の「友愛」の幅はそこに留まらない。簡単に言えば、ここでは高坂ははっきりと班目の咲への恋愛感情を示唆していて、なおかつそれを魔法のように「友愛」に変換している。高坂の台詞を聞いている咲も、班目も、そして読者も了解済みのことだが、事実上咲を「いじめ」ていたのは班目だけだ。だから、上で引用した台詞は以下のように変換される。

それに班目さんが
咲ちゃんをいじめるのは


班目さんは
咲ちゃんが
好きだからだよ

この言葉を聞いた咲は高ぶった感情を平静に戻すことができる。高坂の言葉によって、班目-咲間の亀裂は直接修復されながら、しかし巧妙な言葉の変換によって、それは班目と咲の間で閉じた「恋愛」とならず「げんしけん」という広がりを持った「友愛」にメタモルフォーゼする。


高坂は、班目の咲への恋心が、いわば原理的な水準で成就しないことを内心気づいている。そして、その成就しない恋愛感情が、咲と班目の間に、独特の「友愛」関係となって成立していることも気づいている。そして、その、班目と咲の間の「友愛」こそが、「げんしけん」という、高坂の愛する「友愛」、すなわち異なったものの共存空間の基盤となっていることも気づいている。


ここでは「恋愛」に勝利している高坂が、ある高みから咲と班目を見ているわけではない。「友愛」の人・高坂にとって、咲との関係が恋愛形式をとることは半ば“窮屈”な状態なのではないか。高坂にとって、咲との性的関係は必要ない(7巻P57、P82参照)。見方によっては班目と咲の関係こそ、高坂の理想かもしれない。そして、そこからが高坂の幅の広さになるのだけど、高坂は、そのような班目と咲の関係を、そのまま自身の「友愛」の感情で肯定する。


視点を変えれば、班目の咲への感情は、結局は「恋」に過ぎない。二人の関係は、結果としてだけ「友愛」になっている。咲が班目ではなく高坂を選び続けるのはなぜか?ごく簡単にいえば、咲という人格が必要としていたのは、恋愛ではなく「友愛」なのだ。だからこそ、気づかない筈のない班目の感情に咲は一切気づかない。気づいてしまえばそこに浮上するのは上手く行かなかった恋愛でしかなくなり、咲が根本で求めていた「友愛」が消えてしまう。この正確無比な咲のエゴが班目の恋を流産させ続けるし、卒業間際に告白の衝動をなんとか抑えて「友愛」に踏みとどまった班目に、咲は思わず涙を見せてしまう。


やや残酷な視点になるが、そういう意味では班目は高坂に「恋愛」で負けたのではなく、「友愛」においてこそ至らなかった。咲は事実上連載開始時において恋愛のステップを終えている(前の恋人が学園祭にまで咲を追いかけて来た時、まだつかみきれていなかった高坂を断固として選んでいる)。しかし同時に、そのことを咲は顕在的には気づいていない。要するに、咲は「友愛」へのステップを、「恋愛」の形式にのっとってしか踏むことができない。この過程は不可逆となる。こういった咲の弱さを内包できるのは、高坂の「友愛」、つまり性愛も「友愛」の一部として繰り込む幅の広さしかなかった。


遡行的に言えば高坂は早い段階でそのことに気づいている(少なくとも4巻において)。自らの理想が失敗として眼前に成り立っているという状況。そして、その失敗している班目こそが、咲の特定の部分をカバーしているという状況。班目を暗に理解していながら回避する咲のエゴイズム。この風景を、高坂はおそろしくノーブルに肯定してゆく。そして、そのようなノーブルな肯定の感情こそ「げんしけん」という作品の基底をなす「友愛」の形なのだと思う。


4巻を過ぎて、高坂は急速にその存在感を減らす。理由は明らかで、咲と「げんしけん」のコンフリフトがほぼ解消され、「げんしけん」という「友愛」空間が安定したからだ。4巻末で新たに導入された「にゅーアンバランス」(24話サブタイトル)、新部員の荻上に関しては既に確立された「げんしけん」自体が「友愛」を示してゆく(しかしこのキャラクターは説話論的構造から最終的に「恋」に“落ちて”しまう)。だが、残された朽木を最も友愛で包んだのは高坂だ。同人誌作りであぶれそうになった朽木に仕事(役割)を与え、文化祭の準備を一緒にしてゆく高坂は、的確に朽木に突っ込んでは彼の居場所を準備する。


高坂は差別をしない。が、異なる位相にあるものを同調圧力で同化はさせない。いわば、異なるものを異なる形のまま「友愛」するのだ。恋愛に失敗する班目を、恋愛を通してしか高坂の友愛にアクセスできない咲を、実は実務に優れながらコミュニケーションが偏っている朽木を、ごった煮にせずそれぞれの形を維持したまま肯定してゆく。こういった、一種の他者との共生というテーマは、もしかすると産まれたばかりの乳幼児を異物として描写しながら「萌えキャラ」に産褥だの尿漏れだのをさせてゆく最新作「ぢごぷり」を連載中の木尾士目の大テーマなのかもしれないのだが、私はまだ「ぢごぷり」は読んでいない。育児は少し私には身近すぎる。

*1:同様の状況が反復された、笹原の妹がボーイフレンドに殴られそうになった時の積極的な高坂の描写は、その積極性によってピュアに「親切」な高坂のキャラクター描写となっている。高坂の「愛」は、強さに反比例して静かに表現される