川村記念美術館で「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展を見て来たのは少し前のことで、その印象を文字にするのが難しい。この美術館と、イギリスのテイト・モダン、ワシントンのナショナル・ギャラリーが持つシーグラム壁画(30点中15点)を合わせて展示している。更に関連資料や「黒い絵」シリーズの4点、東京都現代美術館所蔵の作品等も合わせて展示されている。


ロスコは私にとって近しい画家ではない。最初に見たロスコはおそらく以前の川村記念美術館のロスコ・ルームの作品で、あの暗い照明の中でロスコに包囲される感覚は、少しエフェクティブ(効果的)に過ぎてなじめなかった。端的に言えば、個々の作品が見えない、というか作品がある空間の雰囲気醸成のための道具になって見えた。一つ間違えれば安直なインスタレーションになりかねない。踏み込んだ事を言えば、作品は作家からは切り離して取り扱える筈なのだから、例え作家の意図がどうであろうと、個別の作品がかっちり見えるように展示されてしかるべきだと考えていた。そして、もしそのように見たのなら、ロスコの作品で最も良いのはシュール的な内容からいわゆるロスコ的絵画に移行した初期のもの(複数の色彩が画面上に配置されるもの)だと思っていた。


旧ロスコ・ルームでの作品は色彩が沈滞し、むやみにDEEPになっていた。他の作家の作品が排除された展示場所での作品に「向かい合う」ことが要請(強制)されており、要素が少なく判然としない画面は、そこに観客の心理を投影させるスクリーンになる。空虚な画面を提示されれば、観客はそこになにかしらの意味を読み込んでしまう。ロスコの作品に感じられる「吸い込まれる」ような感じは、このような絵画の、文字通りの「落とし穴」のような構造を利用したもので、そこで人は自らの心理をねつ造しそこに埋没する(一種のナルシシズム作成システムになってしまう)。画布にしみこまされた絵の具はキャンバスと色彩が一体化して柔らかな触感を喚起し、半ば子宮内的な閉鎖感覚を呼び起こす。こういった構造に取込まれる感触が私は苦手で、むしろ中期のロスコをまとめて見たいと考えていた。


今回改めて他のシーグラム壁画と合わせて再構成された展示では、そのような感覚が少しずれた。そのズレが上手く言葉にできない。とりあえず、ロスコは上記のような、シンプルな「演出的(シアトリカル)」画家ではなかったのかもしれない。個々の展示の要素はそんなに変わっていない。やはり暗い色調の絵画が会場を包囲している。自然光が入る空間は、過剰に暗くもないものの、けして明るいとは言いがたい(天気や時間帯によってかなり状況が変化するようだが)。決定的に異なっていたのは作品の展示の高さで、これが極端に高い。また、各壁面に並べられた作品は間隔が狭く(10cmくらいか)、このため観客は個々の画面と1対1で相対することができない。いわば作品と観客が鏡像関係を築くことができない。


カタログで加治屋健司氏がロスコの作品に対して吉本隆明氏の「対幻想」の概念を引いているのは、少なくともこの展示に対してはフィットしていないと思う(また、上記のように「向かい合う」体験上でのロスコに関しては、あえて吉本氏の概念を対応させれば「自己幻想」にあたる気がする)。高い位置で、観客が一方的に見上げる形で、むしろ作品同士が相互に応答しあっているようなイメージを喚起していたのがこの展覧会でのマーク・ロスコだ。もっとも、この感覚は展示の高さだけの問題ではないのかもしれない。別室にあった「黒い絵」のシリーズはやはり囲われた空間にほぼモノトーンで塗り込められた作品が、これは人と相対する高さで展示されていたのだけど、この黒い画面は、観客の心理を投射するというよりは跳ね返すものだった。赤褐色のような、子宮的イメージではない「黒」が、染み込みながらしかし観客の情動は浸透させない抵抗感を持っていたのが「黒い絵」で、この抵抗感はおそらくシーグラム壁画とは異なり、にじみやぼかしが後退し即物的に「黒」を使用しているからかもしれない。


見る物を「誘い込む」のではなく、どこか一度一定の距離(あるいは断絶)を挟み込みながら、再組織するようなインスピレーションが働いたのが今回のロスコで、こういう感覚をロスコに対して持つとは思わなかった。没入を許さない、抵抗感のあるロスコ?観客に親和的ではなくかなりの程度垂直的なのだけど、いわゆる「崇高」といったものとはまた異なる。各キャンバスが、人に聞こえない声でささやき合っている、その天使的空間をジェネレイトしてゆく、そこのところにロスコの絵画平面が仮構されるのかもしれない。可能ならもう一度見に行きたい。


マーク・ロスコ 瞑想する絵画