クッキンアイドルの事だけを書いたのでは、教育テレビの面白さ全体からみれば偏っている(当たり前だ)。一部の絵本もそうだけど、こどもの世界の未分化な場所に向かう表現て、やっぱりそれなりに大人のパターンをズラしていけるフィールドで、油断していると無茶をやっている人がいる(逆にいくらでも安易になれるのもこども向けの商品だけれど)。音楽人形劇「ゆうがたクインテット」で見るたびに笑っていたのが「おわびのスキャット」。

このたびは
ごめいわく
おさわがせ
ごしんぱい
こころより
つつしんで
あらためて
もうしわけ

謝罪の紋切り型の言葉を、前半分だけで切断して並列してしまう(全部言わなくても分かるのが紋切り型)。そしてそれをいかにも哀切なメロディにのせてゆく。「おわび」という行為、内的な反省とかが消えてしまう。パフォーマンスにしかなりようがないカタチの可笑しさ。凄いのが2番で、そっちでは、対外的な「おわび」でなく、内的反省を示す言葉が、しかしそれも前半分だけで切断して並列されることで、反省さえ自分の自分に対するパフォーマンスでしかなくなる。


「反省」の不可避生と不可能性。「あやまる」事が理不尽に強制されるのがこどもという存在で、彼等が成長するのは内的反省云々前に形の習得(「ごめんなさい」っていいなさい!)なわけで、勿論内的反省というのは形式から逆行して内面にねつ造される。子供にとっての「おわび」に対する完璧な批評だ。深い。


もう一つ、これは一時期朝に見ることが多くて、見てしまうとその日1日がこの歌で支配されてしまう感じがあった「るるるの歌」。


よる まる ひかる
めざめる おきる みる
でる はえる ほえる
はしる のぼる はねる

ある日根拠無く自分が異形の者に変形していまい、それがやがて「よる」だけでなく「ひる」にも起きて社会生活が崩壊し、困って自分で自分をなでたらなおっちゃった、という展開で、まぁ、病の暗喩といえばそれまでなんだけど、この歌が凄いのは、「なおる」ことが全く外からの介入無く自己治癒であることだ。NHKはなんでこんなのを午前中に流していたんだろう。


王道として、病にはウイルスとか社会関係とか「外部」に「悪=原因」があり、それがこれまた外部からの介入(誰かの献身とかすごい技術とか神秘的祈りとか)で治癒する、というのがありがちだと思うのだけど、「るるるの歌」では「めざめる」のも「でる はえる」のも全く自分一人の根拠無き変容で、しかも「なおる」も自分で自分を「なでる」だけで簡単になおっちゃって、もう全部が全部自己完結している。だからそれが「病」の「治癒」なのかは本当は分からない(客観的な確証可能性がない)。最後まで一本調子で不穏。これを精神、というか自己認識の狂いの暗喩として見ると渋すぎる。


アニメーションは、やたら発展した日本でこそ一方向に奇形化しているんだな、と思えるのも教育テレビでのいろんなアニメ表現の実験を見て思うことで、例えば山村浩二氏の「あさごはんマーチ」は佳作だ。

少し前に見たのだけれど品質として凄い、と感動したのが「やさいのようせい」という番組で、繊細な水彩のテクスチャーを張り込んだCGアニメーションが、毎日放送されている、というのは驚いた。

この作品の素晴らしさは、単に技術的な面だけでなく、そのタッチから喚起される世界観が、滑らかで細かい動き=アニメートで実現されていることで、ことにやさいのキャラクターの、歩く、転ぶ、泣く、笑う、といった動作は丁寧に子供を観察していないと表現できないだろう。幼児の動作のアニメートでは宮崎駿の「となりのトトロ」のメイや、Pixy「モンスターズ・インク」のブーが過剰に緻密だったけれど、やっぱりあれはビッグスターが大きな資本を使って表現していたもので、小規模なテレビアニメとは条件が違う。原田知世のナレーションもフィットしている。


ただ、「やさいのようせい」の素晴らしさは、実は大人にこそ向けられている気がする。あのようなファンタジーの質を楽しむのは子供ではないのでないか?趣味のよい、無彩色の木のおもちゃを大人が喜んで子供に与えても、子供がすきなのはビビッドな色彩のプラスチックの玩具やキャラクター商品だったりするわけで、そういう意味ではA-1 Picturesが参加している「ぜんまいざむらい」とかが良いバランスだなーと思う。


主題歌が覚えられそうで覚えられない。困る。