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子供が育つ。1歳6ヶ月。いくつかどきどきする事がある。1年前まで、半ばこの世のものではないような、はかなげで、ちょっと力を加えればあっという間に死にそうで、意味や因果関係とは無縁の反応ばかりで、どこか現実感のない、ふわふわした「いきもの」だったものが、確実に一人の人として、自己を持ち、自我を表明する。毎日のことでふと流されそうになるが、この、自分の生活空間と時間に、「他人」があれよあれよと侵入してきて共存している、という現実がまずそら恐ろしい。
名前を呼べば「ハイ!」返事をして手を挙げる。食事が終われば、食器を台所まで(残った汁をぼたぼたこぼしつつ)運び、シンクに背伸びしてガッシャン、と放り込む。コップからお茶を飲むのだが、真上を向いて浴びるように飲みたがるので少ししか入れられず、結果10回ちかくお酌する。リモコンの裏のふたをとって電池をしゃぶる、電話をもてあそんで勝手にリダイヤルする、ガラスの容器で机を叩く、その他あらゆる危険な遊びを制止されると怒って泣く。ブロックをバケツにかたずけたのを褒められれば喜んで自分で手をたたく。隠された携帯電話を探し出して遊ぶ。スイッチとみれば片っ端から押す。そしてその結果起きる反応(音がする、光る/消える、動く、あるいは何も起きない)を見定める。ボールを投げると大笑いしながら拾って来てもう一回投げろとせがむ(犬っぽい)。勝手に一人遊びしていたのが急にぐずって甘えてこってり寝てしまう(猫っぽい)。
それなりに秩序があった宇宙船の中に、エイリアンが発生してきていつの間にか一緒に住んでいるような気分だろうか。こんなことは、20代の頃には想像できなかった。そもそも私は他人が一緒にいると睡眠がまともにとれない体質で、以前は子供どころか結婚だって考えられなかった。実際、30才を過ぎて結婚してから、家庭が維持できていたのは子供ができるまで寝室が夫婦で別々だったからで、新婚だった時期は自分の生存・生活空間に第三者がいることがいつまでも腑に落ちなかった。その感覚はここ数年は薄れてきていたのだけれど、ここにきて子供によって再びよみがえってきている。夜中、ふと暗い部屋で寝ている子供の背中を見て、うわああ、と思う。いる。いる。人が一人いる。そしてその人は、今まで私の時空間だった筈の「ここ」で、全く異なる時空間を過ごしている。そんな今更な驚きを感じてしまう。
家族というのは、こういう、一致しない複数の時間や空間が同時進行で重なり合いながら、けして混ざり合うことなく/連結・離反しつつ全体で1つの系を形作っていくことで、このような立体的な複雑さは、なんといっても構成員が3人に増えたために累乗的に加速した気がする。結婚して「対」の関係を形成したときも、上記のようにその第三者との生理的時空間の重層化に驚いたのだけれど、結局2つの独立した成人主体、というのは平行関係を作ってしまえばそれなりに簡単にいろんなことが処理できてしまうし、必要な部分だけシェアしている個人だとすれば、食事や買い物・お金など場面によっては一人暮らしの時よりイージーになることもあるくらいで(ちなみに子供が出来て配偶者が忙しい勤めを止めるまでは夕食はほぼ私が作っていた)、婚前にびびっていたほど大変ではなかった(ただ、この「楽」さはある程度の居住スペースを必要とするとは思う)。それが子供が出来たとたん、一気に「家族」というシステムはタスク・ユニット数を増した。
とはいえ、別の意味でこわいのはこういう事を次々こなしていく配偶者と私の図太さ(もともと人間の作りが現実的で即物的なのだ)で、それなりに作業をルーチン化してしまえば大抵の現実の裂け目とか面倒くささはするっと無視してしまえる。それでも、ときおりこの構築物の脆さを実感することもある。5月のよく晴れた日の夕方、近所の川ベリの、菜の花がずーっと立ち並び西日に照らされた金色と黄緑色の道を、走る事を覚えて興奮した子供が声を上げながら駈けていく、その背中を配偶者と追いながら、うひゃあ、と思い、この光景はほとんど死後の世界そのものではないか、この草の向こうに死んだ父と義兄がいるんじゃないか、というイメージがわき起こって、急に子供を捉えて担ぎ上げた。あの一瞬の光に満ちた予感はわすれられない。
この1年半の、私にとっては大きな体験というか感覚を、子供はほぼ100%記憶しないというのがまた奇妙だ(もちろん三島由紀夫みたいに産まれた直後の産湯の桶の光を覚えている、みたいな特異な話もあるけれど)。すくなくとも意識できるレベルでは、今の、今までの出来事はこの子には「ない」ものとなることは確実で、ということは「今の彼」は実体としては今しか存在しない、将来どこにも連続性を確認できるものがあり得ない幻のようなもので、その事にもショックを受ける。