偶然通りかかったビルの前に、山口長男の展示をしているというギャラリーのカンバンが立っていて、興味を持った。狭いホールの奥まったところにエレベーターがあり、敷居が高い印象だったけれども、するっと入ってしまった(こういう所に対する抵抗感は学生時代に消えてしまった)。狭い空間に、小さな作品が額装されて壁面いっぱいにかけられていた。予想した通り画商さんが限られた人に向けているところで、私はシャツにジーパンという出で立ちでははっきりと場違いだったのだけれど、作品が意外に面白くてつい全部見てしまった。スケッチ/ドローイングではなくカットの原画で、立ち話の聞きかじりでは頼まれて断れなかった仕事だったらしい。今回、このギャラリーが残された未発表のカットをカタログレゾネ化したらしく、そのレゾネも限定1000部?(記憶が曖昧です)で販売されていた。


イレギュラーなものもあるが、多くは紙に、数センチ四方の四角が鉛筆で描かれていて、その中に墨で線や点が描かれる。抽象的な内容だけでなく、人やかぼちゃのような具象的なイメージも描かれ、タッチも細い線から筆(毛筆と思える)によるストロークといくつかバリエがある。鉛筆による四角に収まらないものも散見される。極端に細長い構図、あるいは紙を継いだものもある(この、紙を継いだ横長の作品にはピンで固定したような跡があるのだが、作家が壁に貼ったりした痕跡だろうか?)。結構な数の作品に売約済みを示すであろう赤ピンがついていた(これも立ち聞きだが、1点6万円、とかそういう相場のようだ)。カタログレゾネは簡易で1部1000円で売られていた。もちろん山口長男は国内抽象絵画のビックネームではあるのだけれど、こんな細かい仕事にまでレゾネが作られるというのは驚いた。放っておいたら散逸してしまうのだろう。


事の成り立ちからもイラストレーションと呼ぶべきもので、ことに具象的なイメージのものは技法といい素材といいあまり面白くない(なんとなく、具象のものは対象のイメージが表象されることで作品として担保されてしまっていて、個別の線の緊張感が低い)。しかし、単に線がからまっているだけのカットなどは、意外な新鮮さをかんじさせる。山口長男のタブローは、明快な形態と抑制されたマテリアルの操作によって妙な表現主義的情念を感じさせない分、相対的に国内の同時代の作家の中ではクールに見えるものの、どこかでクラフトに傾きがちな仕上げの感覚があり、また色彩の扱いが納得いかないことが多くて(黒い地に単色の色面をぶつけるとか、シンプルに効果を狙いすぎな気がする)積極的にすき、といいたくなる画家ではなかった。また、タブローに見られる過剰な「重さ」はちょっと違和感を持っていた。しかし、今回のカットの仕事の、ことに線だけで構成されたものには、物理的にも知覚的にもそのような重さがなく軽快で、リズミカルな魅力が伝わった。最も良いな、と思えるものにはどこか創発的というか、見るものを「描き」へ導くような感覚があった。


山口の線のカットの仕事が独特の「誘い」を見せているのは、まずその線が一定の集中力を見せ繊細に運動しながら、しかし工芸的に仕上げられてはおらず運動それ自体が止まらない状態で定着しているからで、見ながら「この線はこの先どのように動くだろう/あるいは展開するだろう」という想像がなされるからだ。こういう、しっかりと描かれながら(単に粗雑な「やりっぱなしの未完成」とは異なる)描きに内在する動きとかエネルギーを閉じてしまわないで生きたままにしておくのは、相当な修練がいる。いくつかの作品ではその修練が前に出て「名人芸」になってしまっているかもしれないが、すくなくともそれが名人芸であることは認めなければフェアではないだろう。とりあえず、私にとっては過去に見た山口のタブローの大作よりはずっとこのカットの仕事の方が面白かったし、こういう作品が、豪華な家の玄関とか料亭とかにだけ飾られるのは惜しい気がする。


ギャラリーの人はとてもフラットな人で、私のようなラフな服装の者にも丁寧に声をかけてくれるのだけれども、その声に応対していると作品のリズムに乗ろうとするタイミングがずれてしまうので、ついつっけんどんな態度をとってしまった。大人としてあまり格好よくはない(服装云々はどうでもいいけれど、こういうときの立ち居振る舞いが「みすぼらしい」のは恥ずかしいと思う)。中長小西という画廊で、興味のある人は京橋で探してみてください。