Gallery Koyanagiで鈴木理策「White」展。写真、というメディアが素朴に「現実」を写している、という前提はずいぶん前から崩れていて、それは別にプロフェクショナルなカメラマンや編集者などではない、ごく一般の人の間でもそうだと思えるのだけど(いまや携帯の写メールも適宜ソフト的に加工するのは当たり前になっているだろう)、では写真は100%CGと等価になったのか、といえばどうしてもそうではないだろう。例えば、フッサールにおいて、「世界」はあくまで事後的に構成されたものだけれども、様々な“現象学的還元”の先にある、意識に回収しきれない外部の痕跡が知覚にはある(目の前のリンゴがどのようなものか、という認識はあくまで意識による構成であることを免れないが、そこにリンゴが「在る」ということだけは動かしがたい=そこだけが意識によってコントロールできない)。写真というメディアが、だれにとっても加工可能なものであるとして、しかしそれがどこかで「ただの絵」ではない、という確信は、だから、そのような外部の痕跡が看取されるかどうか、という点にかかっている。


誤解を防ぐ為に言えば、それは、例えば元の風景と写真プリントを見比べて、ここまでは加工されているけれどもここはそうではないと実証できたからOK、とかそういったものではないだろうし、ひたすら精緻な細部がどのくらい映っているか、といった話ではないだろう(そういった、客観的な実在性の実証、という思考回路を批判したのがフッサールだったわけだ)。上記のような、操作可能であることが前提となっている写真において、なおかつ看取される、けして操作しえない外部性とは、ごく事後的に、その画面の中のイメージの有り様そのものによって「直感」されるしかない。この「直感」はとても逆説的ではあるけれども、どこまでいっても個人的主観の範囲でしか決定できない(だから「客観的実証」はできない)。だが、そのような、誰とも交換できない「直感」こそが、写真に外部性を見いだすのだし、だとするならば、反転していえば、100%のCGであっても、どこかでそのような外部性が刻印されるか、どこからか外部性が侵入してしまえば、それは「写真」とは呼ばれなくても「何事か」になりうるだろう。このような「何事か」を「質」と呼ぶのだと私は思う。


鈴木理策氏の「White」で展示されている写真は、極めて操作的なプリントであって、これを「自然」と見ることはできないだろう。むしろそれはとことん人工的な写真なのだし、そういった意味で言えば「絵画的」と言うことも不可能ではないと思う。しかし、ここで鈴木氏がしている操作は、いわば、鈴木氏の「直感」、その写真家としての感覚に介在している何事か=外部性をとことん純化し増幅するために行われているのではないだろうか。そして、ここで鈴木氏が直感したものとは恐らく雪(という実在物)ではなくて光、あるいは光線といったもので、ここでの雪は、そのような鈴木氏の「直感」としての光を捕まえるためのフィルターに過ぎないように思う。真っ暗な背景に点々と映る光の円が連作で、断ち落ちで木のフレームに収められている作品や、積もった雪の表面を手前と奥をぼかして撮った作品が最も優れていると思えたが、そういう意味では小さく丸く切られたマットつき額装に銀地にプリントされた雪の結晶は、カメラがカメラのレンズを撮ったようなものに見える。外部としての「世界」を、そのまま捉えれば外部のインデックスの写真が撮影できる、という楽観論から恐らく鈴木氏は遠い。それは既に構成された意識にすぎない。存在の存在論的有り様に迫る手続きを経て、初めて人は「写真」が撮れる(だから、いまや単にシャッターを切るだけでは「写真は撮れない」のだ)。


ただ鈴木理策氏の試みは、ごく危険なものだとも思う。端的に言って、結構な割合の写真では操作が上手くいかず/というよりは恐らく上手く行きすぎて、ピュアに意識的に構成された世界像=外部性の塗り潰されたイメージになっている。会場に入って正面、奥まった空間に展示されている、手前に幾重にも重なった雪の隙間から木の枝が見えている作品、あるいはやはり連作で、うねる白い色面の上に僅かに遠景が映る作品等は、ほとんど単に清潔なだけのイメージに見えてしまうし、6枚の雪山のショットを1つのフレームに収めた作品も同様だ。私のここまでの記述では、まるでこの展覧会をとても持ち上げているように思われるかもしれないが、全体的な印象としてはむしろ私は反対で、例外的作品を除いておおよそのっぺりした、クラフトあるいはインテリアのような触感しか得られなかった。これには演出的なギャラリー空間のせいもあるかもしれないが、基本的には、写る要素の少ない、ミニマムな対象、真っ白い雪原を「操作的に」撮っているから、というシンプルな原因があるのではないだろうか。私は2007年の東京都写真美術館での鈴木氏の個展を意識的に見なかったのだけど(同時期に開催されていた「キュレーターズ・チョイス07」を見ながら2Fで行われていた鈴木理策展を回避した)そのときも、このようなあやうさを感じていたように思う。それでも、今回の展示では2点だけそのような危険を超えたプリントが見る事ができたし、一度超えてしまえば、それはもう見事と言う他ない。


鈴木理策「White」