吉祥寺A-thingsで「TRIO-A-STRIPE」。西原功織、保坂毅、秋本将人による3人展。西原氏の作品は表面のテクスチャーの質において、独自の成果を見せつつ在る。2008年に見た同じA-thingsでの長期個展では、その絵の具の扱い、例えば小さな画面に多くの線が走る地図のシリーズで、複数の色彩を持った諸要素の軽快な関係性が見る者の「構え」−それは「絵画」という制度の暗黙の前提のことかもしれない−を解除してゆくような速度とリズムを形成していたし、その後の指紋シリーズでは、一転して画面を振動させる、緊張に満ちたビートを響かせていた。そこではいわば絵が構成できる視覚効果の様々な実験、といった側面が強かった記憶がある。


そういった、いわば「絵画チップの作成」(小型の画面に様々なエフェクトを構成して並べて結果を比較してゆく)は相変わらず行われているのだけど、それに加えて今回の展示作品では、明らかに表面の絵の具の物質性の現れにもフォーカスが当たっているように思われた。マットに抑えられた絵の具の質感、それは特に会場正面にある、彩度の低い緑の、ストライプの構成による作品と上下、そして左右も少し白地を開けてフラットに塗られた作品に顕著なのだけれど、ここで色彩は色彩それ単独ではなく絵の具の性質のある表出として扱われている。そのクールなマチエールには、以前よりずっと触覚的な手触りが増していて、西原氏の溢れるようなセンスがけして視覚的なものだけでないことが良く分かった。青や黄色、赤といった横のストライプが緑の色面に門型に囲まれている作品の、ビジュアルの効果とテクスチャーの絶妙な組み合わせなどは印象的だった。この作家には知的な面と同時にどこか動物的な運動神経というか嗅覚の鋭さというか、「上手い」というだけでは収まらないところがある。


保坂毅氏の作品はいずれも小型だった。同じく先のA-thingsでの個展の時見られた大型(というか縦に長い作品)を思い出してみて思うのだけれども、この作家の資質に対しては小型の作品の方がフィットして見える。資質、というときっと大袈裟で、大型の作品が今ひとつ間延びして見えていたのは、そのレリーフ状(半立体というべきか)の表面を形成する描画がかすかにタッチをもち、薄い層を重ねるような繊細な構造をしているから、どうしても大きなボリュームを持った作品になると、表面の強度が全体のマッス=量に対して負けてしまう感じがあるのだ(だから資質というより技術的な問題なのだろう)。今回展示されているくらいの大きさの物ならば、面形成の密度と立体が孕むボリュームの緊密さが適切に関係している。


彫刻作品でも、あるいは絵画でもそうだとおもうのだけれども、物理的に大型の作品でないと実際に広い空間と拮抗できない、という誤解はありうる(保坂氏がそういう誤解をしている、という事ではなく、あくまで一般的な話)。もちろんそんな事はなくて、作品それ自体に空間から自立した強度があり得れば、適切な配置によってどんなに小さな作品でも様々な空間に-それは野外とかではなく室内に限定されるけれど-ビビッドに関係できる。それは「間」のような、曖昧なニュアンスに回収されてしまうものではなくて、要は作品とそれを取り囲む、様々な状況との生き生きとした対話が会話できるかによるのだと思う。保坂毅氏の作品は、特にそういった、周囲の事物や現象と対話していくような傾向(資質というならこういう傾向のことを言うべきなのだろう)があって、そういう意味では単独の個展の時と異なる魅力が、今回の三人展によって発揮されている気がした。


秋本氏の作品は、私は2007年の恵比寿にある工房“親”での個展を見て以来の展観になる。この作家が試みているのは、私が見た範囲ではあくまでフレームとその内部に構成される要素の関係がつくりだすイメージの問題であって、それがケーキに見えたりチョコレートに見えたり、というのは言葉の本来の意味で「表層」に当たるだろう(「表層」だからどうでもいい、という意味では勿論ない)。別の言い方をすれば、この作家はいかなるアクロバティックなイメージを提出しようとあくまでその中核においては恐ろしく反動的な「絵画」を内包していて、この反動性はいっそ爽快なくらいだ(世にある「進歩的」美術の退屈さを考えればよく分かる)。


いずれにせよ、作品それ自体を見ていけば、素材と手作業が作り出すイメージとのズレが強調されている。色の乗ったコート紙が織り込まれ箱になり、しきり板になり、そこに挟み込まれた四角いタイル状のピースがある。黒い箱に規則的に並べられたタイルピースは、鮮やかなピンクやオレンジ、紅白のツートーンなどであり、一見お菓子の包装のようだが、同時にそれが工業製品ではなく明らかに手で折られたものであることもわかる。ピースもケースもエッジがけしてぴっちりと立っていなくて微妙に丸く紙の強度によって膨らんでいるし、それが壁に展示されていることでラッピングに包まれた商品本体(それこそチョコレートとか)が無い軽いものであることが理解できる。またホチキスの針が露出していたりもする。結果、工業的ラッピングのようなイメージが意図的に手づくりされた「奇妙なモノ」という位相が成り立つ。この作家の作品におけるラフさはベタなものではなく、あくまでそれがフレームの多重性を召喚するために、かつ、素材の特性を露出するために要請された、いわば精密なラフさと言える。


●TRIO-A-STRIPE