夏の思い出。

・7月。私の配偶者は駐車場にいた。1歳7ヶ月の長男は親が持つものを何でも欲しがっていて、与えなければグズる。車のキーなどは彼の大好きなものの一つで、相対的に害がないため、それまでも与えることが多かった。その日も彼はキーを持たせてもらっていた。駐車場には、建設現場用の単管パイプを使った車止めがあった。地面に穴を掘り、パイプを差し込み、地上に出た部分を横に別のパイプでつないでいる。


・配偶者はけして長男から目を離していたわけではない。ただなんだかボンヤリしていたらしい。厳しい日差しのせいか。今となっては分からない。キーを持っていた長男が、興味深そうに、地面にささったパイプを覗き込んでいた。危ないな。そう感じながら配偶者はなぜか身動きもせずに見ていたそうだ。彼が、パイプの中に、重力の実験でもするように、そっとキーを落とす様子を。


・私が帰宅した夜、配偶者は既に一通りの挫折を繰り返して疲れきっていた。パイプをどんなに覗いてもキーは見えない。深さは50cm以上はありそうなこと。パイプの底にはここしばらく続いていた雨の水が溜まっていて、キーはその中に沈んでいそうなこと。得られた情報はそれだけだった。


・なにしろこの段階で既にスペアキーを無くしていて、手元にあったのは長男が落としたキーだけだった。保険会社に連絡したら、車のキーシリンダーの交換しかないと言われた。車検をお願いしている所に問い合わせたら、数万円はかかるそうだ。はいそうですかと、あっさりその金額が出せる余裕はない。加えて、配偶者には長男の行動を見送ってしまったという悔しさと、自力でなんとかできるのではないかという気持ちがあったようだ。ここから配偶者のアイディア大作戦が始まった。


・細長い棒2本でつまみ上げる。先を曲げた針金でひっかける。磁石でくっつけようとする。けれどもどうにもならない。狭いパイプの底にあるものを長い箸状のものでつまむのは不可能だった。針金は柔らかすぎて、どうも力が入らない。棒の先にフックを付けても上手くいかない。キーは磁石に反応しない。目標が視認できないのでは話にならなかった。


・次の日、また帰宅した私は玄関に奇妙なものがあるのを見た。棒の先に写真のフィルムケースがガムテープでつけてある。なんと配偶者はその日の昼間、せっせとパイプの中の水をこの道具で汲み出していた。泣けるというか笑えるというか。しかしおかげでキーは底にあることが確認できたという。私も改めて見に行った。ライトをかざすと、うっすら、黒々とした中に見慣れたキーが縦に立てかかっているのが見えた。


・しかし、前進したかにおもえた状況はそこでまた止まってしまった。結局パイプの中は狭く、キーを見ながら作業をすることができない。覗き込むときは真上から凝視しなければならないが、作業すれば手元がパイプの開口部を隠す。また、昼間はキーを視認できない。真夏の太陽が作る影は懐中電灯など相手にしてくれない。夜、ライトをつけながらキーを確認しつつ拾い上げなければいけないわけで、二人一組でトライしても難しかった。ライトは乾電池を使うタイプはまったく光量が足りず、非常用の発電ハンドルがついたライトでようやく事が足りるが、つまりそれは使用中延々ハンドルを回さなければならないということだ。何度か虚しい挑戦を繰り返した我々はぐったりしてしまった。


・配偶者はとんでもないことを言い出した。トリモチを作って棒の先に付けてキーを持ち上げようと言うのだ。彼女的にはナイスな発想だったらしく、ネットでトリモチの作り方を研究し始めた。いやいやいやいやいやいやいや。待て待て待て待て待て。トリモチて。それ本当にキーにくっつくの?水に沈んでいたんだよ?今も乾燥はしていないよ?濡れてたらくっつかなくない?そもそも、あの狭いパイプの中を真っすぐトリモチを下まで降ろせる?側面にくっついちゃったら事態が悪化しない?というか、トリモチ自作?


・意地になっているとしか思えない配偶者に、私は駅で線路に落とし物をした時に駅員さんが使う道具の事を話した。あれの小さいのがあれば良いのではないか。早速検索してみれば、ピックアップツールという名前でポピュラーに販売されていた。近所のホームセンターで見てみたら具合がいい。価格が5000円というのが少し痛いが、仕方が無い。買おうと思ったが、ふと嫌な予感がした。長さが足りないのではないか。穴の深さは50cm強。ピックアップツールの長さが50cm弱。わずか8cmくらいの「足りなさ」なのだが、終わった。若干の長さの余裕がなければ操作ができない。万事休すか。


・あきらめかけていたところで、「何でも屋さん」という案が改めて出た。「お困り事何でも相談ください」とか電話帳に書いてあるアレである。実は前にも我々の間で話は出ていたのだが、なんとかタダで解決したい配偶者によって棚上げされていたのだ。しかし、ピックアップツールを購入するところまでは妥協した配偶者が、電話をして事情を一通り話してみれば、だいたい5千円くらいから状況に応じて対応してくれるということだった。道具を買うのとそれほど変わらない。しかも相手はプロである。確実度は我々より高いかもしれない。ここは一つ依頼してみてはどうか。配偶者も折れた。


・「何でも屋さん」が来てくれる当日、肝心の配偶者は仕事の都合で不在となってしまった。残された私と長男で、連絡を待った。午後3時前に大型のバンがやってきた。現場に案内して、再度状況を話した。何でも屋さんは若い男性で、体格は良いが内気そうな目をした人だった。説明を聞いた彼は、バンの後部を開けて懐中電灯を取り出した。役にたたなかった我々のものと大差なかった。かざして「見えないですね」と言った。私は自分の非常用ライトの事を話した。「それを持ってきましょうか」と言うとあっさり「お願いします」と言われた。大丈夫なのだろうか。慌ててライトを取りに戻りながら、少しだけ不安になった。


・これでキーが拾えなかった時の心理的ダメージを想像していた。ことに配偶者の落胆は大きいだろう。その場合、やはり何でも屋さんの出張費くらいは発生するのだろうか。そんなことを考えつつライトを持ち、現場に戻った。


・何でも屋さんは、パイプのそばにかがんでいた。その背中が見え、すぐに手元に目が行った。まさにキーが引き上げられた、その瞬間を目にした。信じられなかった。私は何か小さく叫んだだろうか。数日の間、私たちの手から消え、一時はその所在まで信じられなくなり、わずかに目視できるようになってからは、なまじ見えるが故に手が届かないもどかしさばかりかきたてていたキーが、あっさり引き渡された。何でも屋さんはピックアップツールのような特別な道具を使っていない。単に先端が曲がった金属の棒でひっかけただけだ。私たちが、一番最初に試してだめだった物とおおよそ似ている。


・魔法のように思えた。何でも屋さんはライトも使わず真っ暗なパイプの中、キーを見ることなくこの引き上げを成功させた。ごくたんたんとしていた。所要時間は実質数分、バンが来てからも10分とかかっていない。費用は4,500円。私は高いと思わなかった。受領書にサインしながらありがとうございますと言って、仕事の鮮やかさに感心した。すこし興奮しているのが伝わったのか、何でも屋さんは照れた感じになって、また何かありましたら、と営業用のチラシをくれて、帰っていった。


・後で経過を知った配偶者は呆然としていた。