「化物語」に見る(母)親と家族、親密圏の怪異性

西尾維新化物語」シリーズを読み終えた。先のエントリ(参考:id:eyck:20090911)で私は前日譚「傷物語」後日譚「偽物語」に倫理性とその歪みを見たけれど、シリーズを通した基底に流れていたのは、少年や少女、つまり子供が逃れられない「親」の化物性=怪異性で、ことに「母親」こそが思春期の子供にとって“化物”的に立ち現れていく様が描かれている。「化物語」の作品世界における倫理性とは「家族」を中心とした親密圏-友人や恋愛対象、「萌え」キャラとの関係を含んだ精神的共同体-の怪異性への態度として要請されているように思えた。


●母の現れとしての怪異
化物語」前半の「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「するがモンキー」では、各話の3人の少女にとって母親が化物=怪異の起動トリガーとなっている事が直接描かれる。戦場ヶ原ひたぎは自らの病気をきっかけに新興宗教に没入し家族を壊した母親を切り捨てることで「蟹」に出会う。八九寺真宵は離婚し別居することになった母親に会いに行く途中で事故死し自分自身が化物=怪異になる。神原駿河は駆け落ちした母親から託された「レイニー・デビル」の手が自分の手に同化してしまう。


西尾維新は、けして母親そのものが怪異になるようには描かない。戦場ヶ原ひたぎが蟹に出会ったのはひたぎがあくまで自分で母親を切り捨てることを望んだからであり、真宵は離婚した母親への固執によって怪異そのものになった。神原駿河の場合は酷い。神原の母親は困難な環境で育つ事が分かっている(その環境は半ば親が準備したものだ)娘に「レイニー・デビル」の手を渡しておいてその心根を試している。そして神原はその罠に誘い込まれる様にレイニー・デビルの手を自らの手にしていく。


正確にいえば、怪異の発動要因は母親それ自体ではなく個々の少女と母親の関係性だ。関係性は、誰にとっても常に存在するがそれが問題となるかどうかはわからない(怪異は常にそこにいるし、そこにいない)。悲惨な家庭にあってもバイタリティを持っていける子供がいる一方、一見なんの問題もない家庭で子供が取り返し不可能な傷を追う。そこに明瞭な因果は無く、現実の恣意性があるだけだ。だから実際に怪異に出会った少女、または主人公の阿良々木暦も一見自らの意志において怪異に近づき、あるいは怪異となったと物語のゴーストバスター的存在・忍野メメは強調する。


しかし「関係の絶対性」(吉本隆明)において、事実上、彼等に選択の余地はないのだ。一見自由に行動しているように見えて、そこに自由はない。あるのは、上述のような現実の恣意性だけである。そして、そのことを忍野メメは口とは裏腹に十分理解している。メメは言葉では厳しいことをいうが、行動においてほとんど少年・少女たちを問責しない(言うだけ言ってほぼいかなる状況でも手を貸す)。


怪異の問題が発生するのも、あるいは解消するのもあくまで少女・少年達の個別の関係性においてだけだ(「お嬢ちゃんが勝手に助かるだけ」)。そこに第三者の操作可能性は残っていない。関係性に含まれた問題の解除の可能性に契機を与え、その場を見守ることしかできない。メメと、彼に導かれた主人公阿良々木暦は、少女達の「自由」を、この圧倒的な「関係の絶対性」、偏在する決定論的事実の受け入れにおいて準備する。


●萌えの現れとしての怪異
そしてこの一種迂回した論理に、西尾維新ライトノベルや「萌え文化」への視線が顕在してゆく。ライトノベル、アニメやマンガの「萌え文化」圏内において、「親」の排除は半ば前提化している。「けいおん!」でも「みなみけ」でも「涼宮ハルヒの憂鬱」でもいいのだけれど、そこに「親」の影がないことは既に指摘もされている。「らき☆すた」において、おたくである父親が登場し母親が既に死んでいる(そして母親の死後の世界からの透明な視線だけが埼玉的背景/風景として遍在化している)ことはむしろこの親の排除のより高度な展開になっている。


なぜ「親」は描かれないのか?それは端的に親が「萌え文化」圏内では深い抑圧として機能していて、その姿を描かないことこそ親の存在の否認(否定する事で認める態度)になっているからだ。西尾維新は「親は登場しない」ライトノベルにおいて、「怪異」の向こう側に、間接的に(母)親を置くことでこの否認と対峙する。


物語の後半では、この西尾の「ライトノベル包囲網」はより細かくなる。「なでこスネイク」で千石撫子に呪いを掛けるのは「友人」であり「クラスメイト」だ。もちろんライトノベルや「萌え文化」圏内において親の代わりに頻出するのが「友人」であり「クラスメイト」なのは明瞭だ。親なしの空間で「友人」「クラスメイト」と過ごす親しい(したしい)時空間のフィクション。親の抑圧の否認された物語で「友人」や「クラスメイト」との親-密-圏が家族の代わりに機能しているのはすぐに了解できる。そのクラスメイトが撫子に呪いを掛ける。退路は塞がれる。


本編最終話の「つばさキャット」において、西尾のモチーフは更に踏み込まれる。ここでは「萌え」と呼ばれる感情、虚構においてリアリティを確保するセクシュアリティの幻想に畳み込まれた矛盾-ストレスが怪異となって主人公を襲う。羽川翼は、類型的萌えキャラの1種、「母親」から抑圧を脱臭し都合の良い母性だけに矮小化された「メイドキャラ」の極端な形態として登場している。大きな乳房、面倒見の良い性格、誰に対しても公正な態度。「けいおん!」の琴吹紬、「涼宮ハルヒの憂鬱」の朝比奈みくる、「らき☆すた」の高良みゆきといった系譜の中に羽川翼はいる。そして、もちろんこの系譜のキャラはけっして主人公とそこに同化する消費者の、真の欲望の対象、つまりメインヒロインにはならないのだ。都合良く巨乳で、都合良く奉仕をし、都合良く見捨てられるのが脱臭された「母親」としての「メイドキャラ」と言っていい。この立ち位置にふさわしく羽川翼阿良々木暦に選ばれない。そして、そのことへの反動として、翼は怪異と化す。


なぜここまで親は、ことに「母親」は萌えの圏内で“怪異にしかならない”のか。それに対する西尾の見解は端的で、原因は「父親」にある。「つばさキャット」で、一見無駄に語られるひたぎの父親像は、家庭において役割から逃避している。その間にひたぎと母親は関係を自壊させている。「父親」に異議申し立てをしても「父親」は「父親」以外の場所に退避可能だから機能しない。残された母と子は閉塞した密室で窒息し、「母親」は「母親」であることの全面的否定を通してだけしか「関係の絶対性」に対応できない-つまり、「母親」の怪異性はほとんど「父親」の逃避によって用意されている。そして、「子供」は、この状況に対する逃げ場がない。男女間の、そして親子間の非対称性そのものが怪異に転移する。


だが、それを西尾は直接描く事はできない。親が出て来るライトノベルはあり得ない。それはライトノベルという市場において既に十全に否認されている。だが「怪異」を置き親を背景化することで、むしろ「家族」の問題は「化物語」で、これでもかと言えるほど大きい存在になることができる。「つばさキャット」では、メイド化した「母」としての羽川翼というレイヤーにおいてだけでなく、もっとベタに家族の暴力が描かれる。連れ子の連れ子である羽川翼はまったく「子供」ではないし彼女の親も全面的に「親」ではない。親相互も既に夫婦という実体がない。にも関わらず「家族」という抑圧装置だけが稼働している。そしてそこにくっきりと(父を放棄した)父による家庭内暴力がある事が示されている。ひたぎの父親が、逃避に成功することでひたぎとの関係の維持にまんまと成功していることと翼の「父」の場所の苛烈さの対称には注意が必要だ。もちろんこれはさりげない、しかしだからこそ重大な「化物語」のシグナルだ。


●家族の現れとしての怪異
羽川翼は怪異となって親を襲う(殺意を持って)。この解消には20歳になる、すなわち成人して独立し名目だけ残っている家族が完全に解散するしかないのだ。そこには「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「するがモンキー」でのような、諦めと受け入れに基づいた家族=怪異との共存はあり得ない。「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」「するがモンキー」では、いわば「家族の崩壊」が基調音だったが、「つばさキャット」では、完全に壊れた後の家族、家族ともよべないにも関わらず維持され全員を抑圧している奇怪な「崩壊後の家族」が背景にある。1986年に糸井重里が「家族解散」と言った時、家族は解散可能な物としてイメージされた。しかし、20年たって確認されたのは、未だに家族は解散されないしできない、ということだ。あらゆる共同体が解除される現代資本制において、近代国家と近代家族だけが解除されない。この国家-家族の両極において「暴力」は結晶する。そして、家族は、既に再帰的家族であり、直接にその暴力に対峙することができない(直接対峙すればそれは既に壊れた家庭の物理的追認でしかありえない)。


後日譚の「偽物語」下巻「つきひフェニックス」はもはや異様だ。主人公の妹・阿良々木月火は母親を遠因として怪異に出会うのでも怪異になるのでもない。母親によって直接怪異として胚胎され出産されたのだ。つまり月火においてこの世界に産まれたことそのものが化物的であり怪異性それ自体である。そして主人公はそのような「家族という怪異」を容認し共存することを選択する。このことは、羽川翼の解散するしかない家族の怪異性と対称性を示している。まさに、解散できないことそのものが主人公阿良々木暦にとって家族=怪異だ。この圧力を乗り越える時に不可避的に要請されのが暦の倫理となる。不条理、解消不可能な事態に対し、既に暦にはこの世界から退場するという道は残されていない(「傷物語」を参照)。自らが既に怪異としての側面を持つ暦は、この異形の世界、異形の家族をその異形性において許容する。このような身動きのとれない場所での肯定の意志こそ、「倫理」と呼ばれるだろう。


一見滑るような掛け合いに組み込まれた作品世界はシリアスだ。趣味で書いたという西尾のあとがきはおそらく本意だろうが、だからこそコアとなるような強迫が露出しているのではないか。「化物語」シリーズ全体において、どこかに正常な家族がいてそこから疎外されたのが「怪異」としての家族なのではない。そもそも家族というものがその真性において「怪異」なのだ。繰り返せば、それはどこにでもいるし、どこにもいない。阿良々木暦は「つばさキャット」で恋人のひたぎからセックスの拒否を示される。しかし、その拒否は「かれんビー」の最後に解消されたかのように暗示されている。このことは当然、次の事を示している。暦とひたぎは、未来において怪異の芽を自ら育てる。「家族」を愛することは家族の怪異性を排除してはなりたたない。家族の怪異性をまるごと肯定しなければならない。


●砂漠かジャングルか
この水準において、羽川翼阿良々木暦の「別れ」は、ライトノベルという枠組みを超えた必然性を示すことになる。高校卒業後、優秀であるにもかかわらず進学せずに世界を旅するという羽川は、成人を待たずに家族を放擲するだろう。いわば単独者として、砂漠に赴くのだ。これは上述の糸井の「家族解散」、つまり1980年代に予感されていたビジョンに近い。現にこのような生活を送っている忍野メメが30代半ば、つまり1980年代に子供時代を過ごしたことは明らかに当時の思想状況と対応しているし、羽川はそのメメに影響を受けたことが明示されている。


しかし、主人公阿良々木暦は「なお家族は解散しない」という現実、21世紀になっても解除されない家族を条件に生きて行こうとする。それは砂漠ではなく、ジャングルの中で生きようとする意志だ。確かに家族はかつてのような形態ではないし、一部では羽川のように解体した家族もあるだろう。しかし、だとするならそれはもはや問題ではない。羽川のように単独者として生きれば良い。現在の課題は、それでもまだ解除されない家族であり、そのことをどう受け止めるのかなのだ。


意外なことだが、怪異それ自体は悪でもないし暴力的現れをするとも限らない。契機さえあればはっきりと現象するが、逆に契機がなければ(大部分はそうなわけだが)けして現象しない。それは想像/イメージの覆いが取り外された構造であり現実なのだ。現実は単に現実なだけであり、そこに悪も善もない。通常イメージの膜に覆われている世界の、ほんの少しの破れ目が怪異だと言っていい。「家族」のイメージは逆に破れ目だらけかもしれないが、その破れ目を「化物語」は肯定してゆく-ここに意外な西尾の反動性を見ることはそれほど不当ではないだろう。が、しかしもう少し異なる見方も可能かもしれない。


ここでの「家族」は、既に崩壊した後である家族の代替物、友人や恋愛関係や想像的「萌え」キャラとの親密圏がつくる中間集団全体に敷衍されていく。中間集団=共同体の親密さは、常に暴力を内包している。その親密さの暴れうる力、暴力に気づき(常にそこにいる/いない怪異の存在に気づき)、しかもそのことと共存していくこと。つまり個々に異形な怪異のジャングル、様々な力の交錯するジャングルでサバイバルしていくこと。このようなビジョンを持つ事は可能な筈だ。