・芸術は語だ。それ以外の言明は偽である。あらゆる思考、メッセージ、個々の具体的な「作品」、それらに先行して芸術という語がある。これは時間的な転倒を表面化させる。芸術という語が産まれる前の芸術、例えば先史時代のそれは、芸術という語の後に遡行的に見いだされたものであって逆ではない。作品の積み重ねが芸術という語を産んだ、という誤謬ほど深いものはない。極地的な事を言えば、明治以前の「日本」に「芸術」はなかった。なぜ「日本」にかっこがついているかといえば、もちろん明治以前に「日本」はなかったからだ。だから、芸術とは、常に近代芸術なのだ。永徳も、ラスコー壁画さえ近代芸術だ。私はそれらを「芸術」という語をのぞいた形でまなざし得ない。


・芸術は語であり、名である。それは「作品」ではない。もちろん「歴史」でも「文脈」でもない。ただ単に語なのだ。語である芸術は語である。このセンテンスは人をどこにも移動させないのか?いや、確かにそこには移動、かすかな、まるでなにかの徴候のような何事かがある。「語である」という語は語全体である。しかし「芸術」を挟んでもう一度出て来る「語である」はもはや語一般ではない。それは引きつけられ、刻まれ、使われ、限定され、圧縮された語なのだ。この移動、あるいは相転位を産みだした謎が無数の「作品」を成立させた。


・芸術が語であり、名であるならば、芸術は名付けられたものであり語られたものだ。しかし、たった1度名付けられ語られた瞬間に、語である芸術は刹那に全世界に呼びかけ、名付け直す。すなわち一挙に、全地理、全歴史中へ「作品」が無時間の内に浮上する。岩肌に刻まれた痕跡が、石が削られた像が、革にのせられた文字が、石灰に封じ込められた顔料の織り成しが、瞬時に名付けられ登録される。作品の積み重ねが芸術という語を産んだという誤謬と共に、歴史が芸術という語を作ったという誤りもまた繰り返し語られる。そもそも「歴史」自体、歴史という語以前に存在しない。それはつまり、起源の隠蔽であり忘却なのだ。芸術という語が呼びかけ、名付け直すものであるという既に終わった事実は、その前の、芸術という語が呼びかけられ名付けられた瞬間を抑圧し忘れさせる。人が乳児期の、あるいは胎児期の記憶を保持できないように。


・芸術作品が芸術として登録されるのは芸術という語によってであって、それは例えば美術館や画廊、美術市場といったものによるのではない。これも芸術という語、歴史という語と同じく美術館・画廊・美術市場といったものが語によって措定されているのだから、ここでもまた話は転倒しているのだ。美術館・画廊・美術市場は語である芸術は語である、というトリガーから導かれている。それが美術館足り得ているのも美術市場たりえているのも語である芸術という語が先験的にありそこから順序して美術館・美術市場という語があるからであって逆ではない。例えば、芸術というジャッジを下しているのは美術館でも市場でもない。ましてや個々人の「経験」からではない。何度も繰り返すが、逆なのであって、語である芸術が語である以上、様々な制度、市場、ましてや個人的な「経験」こそ、語である芸術が語である、という事実から形成されている。芸術は語だ。それを名付けるゲームを楽しむものは、言うまでもいなく語である芸術という語に操られているにすぎない。ゲームの実態はゲームそれ自体であってプレーヤーはゲームのルール上の変数にすぎない。