ごく久しぶりに家で一人でテレビをつけていたら、オリンピックをやっていて女子モーグルをライブで見ることができた。日本の女子は4選手が全員予選を通過し、とても良い雰囲気で決勝が始まったように見えた。結果はテレビで焦点が当てられていた上村愛子が4位で、村田愛里咲という人は8位、伊藤みきという人が12位だった。しかし、これは多分、見ていた人の多くが感じたことではないかと想像するのだけれども、日本選手で最も素晴らしいパフォーマンスを見せたのは里谷多英で、転倒した結果19位ではあったものの、バランスを崩すまでの滑りのインパクトには「そこ」からこちら側へ突き破ってくる何事かがあった。


曖昧な言い方をしてしまったけれども、「そこ」とはつまり、モーグルという専門的なスポーツのフィールドの内部、ということだと思う。「そこ」にはルールがあり、形式があり、歴史があり、守られなければならない、あるいは守った方がより有利な様々なノウハウがあり、それらは体系化されていて一つずつそれを積み重ねて来たものが比較的良い成果を上げられるのだろう。いうまでもなくスポーツというのはその「成果」がごく明確であり(というか明確にされるよう体系が組まれており)、19位の里谷はその上にいる18人の選手より「劣っている」とされるし事実そうだろう。これらが計測でき計量化できる「近代科学」的-ガリレオ的-スポーツの客観性というものだ。ここにまったく異論は挟まれない(その「専門性」それ自体を問い直すことはできない)。そしてそれと等価の、運動の「内容」として、里谷多英の決勝の滑りが(日本人で唯一)明らかに世界のトップレベルと比較可能なものであることもまた「事実」ではないだろうか。


「そこ」から放射されるものが届く場所とは、モーグル競技の門の外にある場だ。里谷の滑りは他の日本人選手からは明らかに遊離していた。まずは早さがあった。しかし早いだけなら直滑降で滑ってしまった方がずっと早い。その早さは、単にスペックとしての早さではないわけで、といことはけしてモーグル競技の歴史や型式や厳密なノウハウのようなものがどうでもいい、ということではないことになる。それらがきちんと踏まえられ、なおかつその上で、それらを踏み台にして実現した「早さ」であって、エアーにしたって単に高くアクロバティックでありさえすればいいのならトランポリンの方がまったく凄い。あくまで、モーグルという圏域の中に内在することによって上がるエネルギーというものがあり、その高まりがあるポイントを越えることで、モーグル競技の門外にも驚嘆されるプレーが実現するのだろう。そこには残酷さがある-完走しなければ評価の対象にもならず、どんなに見事な運動を見せても形式内部での序列が決められる。そしてその残酷さによって、内部から外へと放出される力は増す。きらめくような滑りを見せた里谷はあくまで19位の選手として遇される。


それとは異なる残酷さがあって、それは恐らく「才能」というものだと思う。多分、上村愛子という人が今(あるいはずっと)晒されているのはこの語の持つ厳しさの筈で、今回のような結果、つまり実際には世界で4位という高い評価であり、メディアには過剰と言えるほど注目され(里谷の無視のされっぷりは清々しいほどだ)ているにも関わらず、事「才能」という側面に関しては、里谷多英とは明瞭な差が露出していた。表彰台という不条理な場所にたつ人々と対話可能な何事かはいかなるフォローも無意味なくらい日本人には里谷にしか宿っておらず、この事実はいかに周囲が糊塗しようと上村本人には刻まれているのではないだろうか。同時に、このことは絶望的な話ではないのだと思う。強い才能ではなくとも、専門的なトレーニングと真摯な努力を積み重ねていけば、上村は上村の高さにまで飛べたのであり、そこを飛ぶ事ができたのは、上村愛子だけなのだ。


これは誰であっても頑張れば成果が出る、という話ではない。上村愛子という固有の取り替え不可能な資質が、専門的な備蓄の中で開示した風景は上村単独のものであって、それはきっと1位にも3位にも19位にも開かれることのなかった「場」なのだとおもう。上村の見ている世界はけして里谷には見えない。それを知るのはきっと本人達だけで、その「場」が必ずしも爆発的な力能を発火させていないにしても、十分以上に凄い光景なのだと思う。まったくつまらないストーリーをこれでもかと添加して彼らの美しい(そしてきっと孤独な)ビジョンを塗りつぶしているテレビは、もう少しその辺に対してセンシティブでも良いと思うのだけれども(それと同時に、ライブ中継そのものは冷静で良い中継だったと思う)。