hinoギャラリーで松本陽子ドローイング展「Regarding Living Beings」。私は以前、移転前のhinoギャラリーで松本陽子氏のタブローの展示を見たとき「なぜ後から白をかけるのか疑問」と書いたのだけれど(参考:id:eyck:20050204)、今回のドローイングにおいての「白」は了解できた。木炭紙にチャコールやパステルで描かれているのだけど、ここでの「白」には3種類の白がある。加筆された「白」、紙の地の「白」、後から消しゴムか何かで描画材を拭った「白」に分けられる。そしてそれぞれの「白」の役割が異なる。つまり、手を加えられていない「白」がニュートラルな、プラスマイナス0の場だとしたら、拭われた「白」が削られた、彫り込まれた場であり、描画された白は、浮き出した、浮遊する場として機能している。


絵全体はむしろそのほとんどが黒く、ごくわずかに、薄く茶色あるいは緑といった色彩が点々と、あるいはヴェールのように存在する。しかし「白」の役割は際立っている。それは、茫洋として拡散し、顔料の固まりと広がりとして不気味に画面を覆う黒あるいは色彩を、なんとか分節し、かろうじて秩序づけようとする手段として存在する。加筆された白は、他の顔料に乗っかり、方向づけようとするし、削られた白は溢れる無方向な顔料をせきとめようとし、手を加えられない白は全てを覆い尽くし画面を窒息させようとする顔料から画面を救い呼吸させる。松本氏の、イマジネイティブな、光のイリュージョンのようなタブローとは異なる「描き」に、音符の休符のように、あるいは文章のピリオドあるいは段落替えのように白が置かれ、そのことによってこのドローイングがドローイングとして成立している。


松本氏の描画は仔細に見ればある構造があることが分かる。チャコールあるいはパステルの広がりの中に、どこか矩形のような形態が、うっすらと浮かび上がっている。布を被せられた身体、というよりは暗がりの中の建築のような空間が漠然と看取される。しかし、その空間の認識は視覚的というよりは遥かに触覚的だ。盲目の人が両手でまさぐる様に、未明の中から削り出し彫塑した空間に近い。だから、タブローとこのドローイングの差異はけして表面的なものではなく構造的なものだ。私は近年の松本陽子という人のタブローには「白」の扱いだけではない、基本的な違和感があって、それはあまりにも美的な効果として作品を演出しすぎなのではないかという予感に基づいていたが、このような空間の建築、しかも視覚への演出あるいは“思わせぶりな仕草”ではない、むしろまったく視線という物を前提としないような建築への意志があったことに驚いた。


率直に言えばその全てが成功しているとは思えない。画面内に散らばる色彩には今ひとつ根拠がなく、「視覚」への従属的気遣いが残存しているし、うねる線の集まりには、手癖のようなマニエラがある。このマニエラの最も悪化した例がキャンバスに描かれた、今回出品された中で最大の作品で、人は「タブロー」という意識/構えに縛られてしまうと、このように硬直してしまうのかという典型的な例になっている。しかし、むしろこういった、いい様によっては大失敗した試みがあることは、松本陽子という、既に専門的評価もポピュラリティもそれぞれに獲得している作家の、困難な戦い、あるいは試みとして見るべきなのだろう。黙って効果的な(シアトリカルな)イリュージョン・ショーを継続していくことが松本陽子という人に求められた欲望なのであり、その欲望を見事に裏切っている「醜い」キャンバスは、松本氏がシンプルなイラストレーターではないのだという所作になっている。しかし、やはりその可能性は、視線の欲望に答えるのでも裏切るのでもない、視線の異化、あるいは視線の放擲によってのみ開示されるのではないか。その芽は紙のドローイングの不可視性に胚胎している。展覧会は既に終了している。