内容の剥離した光の部品

ARATANIURANOで渡辺豪「lightedge─境面II─」展。

  • 1.暗くされた会場にプロジェクターで3面、映像が映されている。最も大きな映像には本の小口面が水平に、画面上部から次々と降りて来る。
  • 2.会場の角にやや小さい画面が二つ映されていて、どちらにも夜と思われる部屋の内部がある。
    • 2a.片方はベランダに面した部屋の隅で、窓の外の光源によって窓、外のバルコニー、部屋の中の調度品などの面が白く浮き出ている。それらの面が、ふとしたタイミングでぶるぶると震えだす。
    • 2b.もう片方の画面では2種の映像が映し出される。家具などの無い無人の部屋の窓をシンメトリーに捉えた映像はゆっくり明度を増し、一定の時間が過ぎたところで窓や壁面、床面が歪み出し変形してゆく。
    • 2c.別の映像では、窓が画面右手にある構図で(つまり正面はただの壁面)、そこに浮かび上がった窓のサッシ、手すりの細かいフレームといった部品達がばらばらと解体され浮かびあがり変形してゆく。
  • 3.バックヤードにはカーテンで仕切られた小部屋があり、モニタに斜めから捉えられた暗い書庫のような空間が写っている。カメラは少しずつ引いて行き、ずらりと並んだ本の背の長方形がうごめき始め浮遊していく。
  • 4.バックヤードの本棚に設置された小型プロジェクターは本棚の面に小さな映像を映す。ブロック状に模様のついたすりガラスの個々の模様が上方からぱらぱらと削られたりまた現れたりする。
  • 5.バックヤード壁面には2点の平面作品が額装されている。やはりブロック状に模様のついた磨りガラスが変形され、硬質な地面のように画面下部に描かれているため、無機質な風景のように見える。


渡辺氏は日常の風景を最小限の単位に縮減する。音をなくし、色彩を無くし、光源も限定し、膨大な情報を含む部屋、窓、書棚あるいは本、という個物を光の面に還元する。しかるのちにそれらを個々のパーツに切り抜き、変形・移動・明滅・振動させる。ここで世界は操作可能な映像のパーツの寄せ集めになるのだけれども、それらは最初、いかにも要素が減らされミニマルなパーツにされていながら、組み合わされた状態では「意味」を失っていない。本は小口あるいは背だけの四角形でしかないのが、それはやはり一見「本」であり、奥行きや内容を持ったものだという既存のイメージを持っている。部屋は白黒の明暗の光の面や線の集積なのだが、しかしそこにはたしかに奥行きのイリュージョンがあり、人が住む場であるというイメージを失っていない。要するに、部屋や本といった現実の、観客が普段親しく接している意味の形態を、映像上でクリッピングパスで切り抜ける面や線に切り分けて変容させていく、その過程で観客に引き起こされる心理的解体がこの展覧会の骨子であるように感じる。


日常の光景の意味を様々な技法で変容させ、その違和感を作品のインパクトとするという手法は現代美術ではありふれたメソッドだろう。小瀬村真美の絵画を微細に動かしていく作品、さわひらきの夜の部屋に小さな影絵が列をなしていく作品などが想起される。そういう意味では渡辺氏の作品も、鮮やかな技術と繊細な構成が喚起する感覚のプレゼンテーションにおいて、映像インスタレーションの優等生のように見える。ただ、この作家の新鮮さは、そのような同時代の作家との並列では説明できない。渡辺氏の作品の鋭利さは徹底的にテクニカルな姿勢から生まれているように思う。この作家にとっては最初から世界は切抜きされたパーツの集合でしかない。それらがたまたまあるパターンで連結された世界、という形で映像作品は作られている。「部屋」「本」から意味や感情を洗い落とし漂白する映像加工のプロセスにおいてナラティブな要素が現れる隙間は無い。


だから、渡辺氏の作品に現れる時間は無意味で非人称的だ。そこで経過する時間はオペレートの過程を観察しているようなものに過ぎない。最初から部品の無意味な連結であった世界の映像を、ちょっとその連結、あるいは意味という「のり」を剥がしてやって自由にしてみせた、その経過と結果をそのまま提出している。つまり、私が最初に書いたこれらの作品の「骨子」は実は逆なのだ。既存の意味が解体されるのではない。はなからありはしなかった意味の剥離を見て、観客が何を思うかは事後的な成果であってそれが狙われているのではない。例えば賃貸のワンルームを借りる時、事前にその部屋を下見すると、まったく自分と切り離された場所で自分と切り離された経済的、社会的合理性だけで組立てられた空間に自分が投げ入れられる、奇妙な時間を経験する。無機的ワンルームの無意味性/無物語性と自分の歴史やコノテーションの間の断絶に、少し言葉を失う感覚がある。実際にその空間を借りて住み始めれば、そこにはたちまち無数の家具や日用品が溢れスケルトンが覆い隠されていく。そこで一定の期間を過ごした後別の場所に移住するとして、後から充填された家具等を運び出したとき、またもや自分にとって無意味なスケルトンは露出する。


しかし、そのスケルトンは、有意味な世界が変容して現れたのでもなければ加工され演出されて提出されたのではない。そこで家具や意味に覆われて過ごしている間にも、単にそこにあったのだ。渡辺豪氏が示すのは、その「単なる」事実の提出のようなものではないだろうか。展覧会は既に終了している。