暴走する自転車小屋の夢
自転車小屋を作った。市販されているキットで、昨年の今頃作ったデッキに比べればまったく楽な仕事なのだが、こういう、地面に建てるもので一番大変なのは基礎作りになる。上の構造物が倒れないように、ある程度丈夫に、かつ水平・垂直の精度を下げないように作らなければならない。実質、この基礎部分を作るのが作業の半分なのであって、上物は、それこそキットであればすいすいと組み上げられてしまう。やたらに暑くなくてよかった。
自転車を置く地面にはあらかじめ業者の方にコンクリートを打ってもらって小さなスロープのついたステージにしておいた。あとは柱を立てる4箇所に穴を掘る。20センチ四方の大きさで深さ40センチメートル以上と説明書に指示があったので、スコップでがんばって掘る。元が宅地なので楽でも大変でもないのだが、たまに石や植物の根にスコップがあたる。一箇所では家の雨水を下水に逃がす配管の側面が一部見えて、傷つけないようにした。割栗石(乗せた柱が沈み込まないようにするための砕石)を10センチほど入れてつき固め、そこに自転車小屋の側面だけ組み立てた部分を立て、現場で背面と屋根を追加してとりあえず箱状にしてしまい、ちょっと持ち上げて(アルミと塩ビだから軽い)位置を決め、水平器を見ながら割栗石を追加して、ホームコンクリートを練って穴の残り30cmを埋めていく。1穴で20kgのコンクリートを一袋も使ってしまう。買うときにこんなに必要かと疑ったのだけど、お店の人が「このくらい要ります」と言っていたのを信じてよかった。コンクリートはテミに乗るだけ出して、ケーキを作るときのように真ん中をへこませそこに水を入れていき、とろりとするまで均等に混ぜていく。この辺の呼吸は銅版画を石膏に刷っていたとき(石膏版画)に会得していて懐かしい感じ。
出来上がった自転車小屋は市販品だけあってまったく格好のいいものではないが、こういうものを完全に自作する大変さと、そこで掛かる費用はおおよそ見当がつくので、用が足りれば良しとすることにした(殻々工房http://wiki.livedoor.jp/karakara_factory/d/FrontPageあたりに見られたら笑われるだろうなとは思う)。個々の作業を推し進めていってひとつの物事がある地点まで来るように推し進める、これはかなりの部分で絵画の制作と共通している。違うのは、自転車小屋にはある明快な機能と便益があって到着点に迷いがないことだ。自転車が安全に風雨から守られて置いておければそれは「正解」であり、それができなければ「失敗」だ。絵画にはそういう落とし所がない。できたときに大成功とおもわれていたものが時間を経てまったくの失敗だった、となるかもしれないし反対のこともある。この差異だけに注目して「自転車小屋を作ることと絵画を作ることは違う」ということは可能だし、共通部分をさして「自転車小屋を作ることと絵画を作ることは同じだ」ということもできる。だから、そのどちらを選び言明するかは、単に政治的なものとなる。絵画を、自転車小屋のような実利的なものと「完全に違う」という人、あるいは「同じものだ」という人は、ある事象を素材に政治的な言明をしているという一点において同じところにいる。
何かが何かとまったく切り離されている(あるいはまったく一致している)という“断言”は、それを聞く人から迷いを拭い去り、明快な方向をもたらすという意味で救いになるし、そもそもその断言を救いと感じる人が自分のほかにもいるのだということを暗に示すことで一定の「味方」を確保するという欲望に駆動されている。対して、自転車小屋と絵画を作ることはある点で同じだしある点で違う、という曖昧な言い方はまったくカタルシスを生まない。また、ごく原理的に言って味方を一人も作れない。理由は単純で、どこがどう一致しあるいは相違するか、という分析を進めれば進めるほどに、ここは同じ・ここは違うというポイントがずれていって、結局だれも同じ場所に立てなくなるからだ。例えば私は先におおまかに自転車小屋と絵画の一致点、相違点を書いたけど、細かくみれば、いかに水平垂直がめちゃくちゃでも構造としてある論理的合理性があれば極めてバロック的に傾いた自転車小屋というのはありうるし(フランク・ゲーリーを見よ)、そういうポイントにおいて自転車小屋は限りなくアーキテクトに接近する。絵画制作といえど、一瞬一瞬、まったく現実的諸関係から切り離された魔法を使っているのではなく、絵の具の乾燥の速度や画家の身体の条件とかを積層したうえでの、ちょっとしたジャンプを試みているのであって、自転車小屋を作る過程でそういう瞬間がゼロなわけでもない。精査をしていけばその接点と離反点はそれこそ完全に一致することはないから、味方は確保できない。
自転車小屋を作ることは、目的と条件と素材と道具と労働の、5つの要素の関係性を適切に組み合わせることで可能になる。絵画もその点において基本的に変わらない。最大の差はそれらの組み合わせを実現するための論理が絵画は作品内部において完結しているのに対し自転車小屋は外部から規定されているところだが、これはあくまで理念においてであって、繰り返すが内的論理が外的規定を超えてしまった自転車小屋がありえないわけではないのだし、一般に実現されている絵画の多くは驚くほど「実利」に縛られ(それは作者のナルシシズムを満たすという実利でもある)ている。だから、もし絵画制作というものに、自転車小屋をオーバーしていく契機があるとすれば、曖昧で断言もできず、その結果として味方を予想することもできないような単独な判断を積み重ねていくほかにない。ジャンルとしての絵画を制作しているからといって自転車小屋から無関係でいられるわけではないのだし、反対に自転車小屋を作っているからといって、厳密に言えばそれが必ず外的に規定されたゴール(単に安全で機能的なもの)に「絶対に」たどり着けるとは約束されていない。ふいにどこかで自転車小屋は暴走あるいは逸脱し、まったく予想もつかないような未知の領域へ踏み込んでしまうかもしれないのだ。