生まれ直す色彩の飛び出し/なびす画廊・杉浦大和展

京橋のなびす画廊で杉浦大和展を見て来た。私は2004年から(1回くらい見逃しつつ)年に1度の杉浦展を見てきている。そして氏の作品について一度も文章を書いたことがない。今まで杉浦氏の、キャンバスに油絵の具で描かれた絵画を形式的に記述し、そこで引き起こされている視覚的効果のようなものを析出する気にならなかった。これは杉浦氏の作品が分析に値しない、という意味ではない。むしろ逆で、氏の作品をきちんと記述しようとすれば極端に微細に、詳細に言葉を費やさなければいけなくなることが容易に想像できて、そんなことをするくらいならあの作品群の前に立った時の独特の心持ちを一人で反芻しておいて仕舞いにしたい、という誘惑に抗せなかったのだ。私の知っている範囲で、いま杉浦大和という画家ほど絵画における色彩の展開に自由を獲得している人は思いつけない。


いや、色彩、という言葉で氏の作品をくくってしまうのは危険だ。言うまでもなく実際の作品においてそこに「色彩」という言葉で分節される観念が鎮座しているわけではないからだ。そこにはタッチがあり、濃淡があり、それらの広がりが生む形態があり、形態が感知させる運動と方向があり、そしてそれら相互の関係がある。その総体は絵画空間というしかないものを立ち上げており、そして個々の要素、先に上げたものを含み込んだ何事かを、とりあえず単語にすれば「色彩」というしかないにすぎない。とはいえ、やはり杉浦大和という人の作品の力を誰かに伝えたいとすれば、どうしたって「色彩」という言葉を思い切って使うしかないだろうし、一度使ってしまえば便利な言葉はただちにインフレーションを起すように多用されるに決まっている。ごく単純に言って、赤、青、黄色、緑、茶色、紫、だいだい、黄土色、水色、白、黒といった絵の具が、合間にキャンバスの白を微妙に介在させつつ、まったく互いに殺し合うことなく投入されている様子を見て、色彩の語を呼び出さないようにするのは不可能と言っていい。


誰であっても画面にたくさんの絵の具を載せることはできる。誰であっても色数の豊富な絵を描くことはできる。しかし、杉浦大和氏のように色彩を組み合わせ、展開させ、生まれ直させることはできはしない。チューブから出されたある物質が光線を受けて特定の波長を吸収し反射する、その波長を並べ立てても色彩は生まれ変わらない。杉浦氏の絵画を成立させている、その主な力は、多分色彩それ自体ではなく、おそらくタッチというか筆の画面上での動きの繊細さだと思える。杉浦氏の作品を注意深く見れば、バリエーション豊かなのは色彩以上に、個々のタッチが形成するフォームの多様さであることが分かる筈だ。それは時にかすれ、あるいはもそもそと動き、つっと短く引かれ、あるいは偶然付着してしまったかのように無造作にくっついている。こういったフォームたちは、お互いによけ合うかと思えば押し付き、あるいは上にのっかり、時に潰され、隣り合う。こういったフォーム達の連なり合いこそが多数の色彩のビビッドな有り様を支えている。狩野永徳の、極端に高密度なタッチの展開が素晴らしい「仙人高士図屏風」に色彩があったとしたら、それは少なくとも部分的には杉浦大和氏の作品みたいに見えるのではないだろうか。


杉浦氏の作品は、しばらくみていると、絵の具の前後関係やヴァルールの関係性によって、なにか中空にタッチの軌跡が立体的に浮かび上がっているようなイリュージョンを産み出す。これはいわゆる抽象表現主義に見られる(ゴーキーやフランケンサーラー等)「深さ」とは質が違う。それは「奥へ」と観客を誘い込むのではなくむしろ画面から手前に飛び出すような感覚だ。また、その飛び出し具合が、柔らかに溶かれた絵の具のタッチとは反比例するようにクリアに分節されている。これは描き手がとても明晰にタッチ相互の関係を「見て」いる結果だと思う。一般に画家は「描く」ことにひきずられてしまい「見る」ことに明晰さを失いがちだが、杉浦大和という人はそのバランスが素晴らしいのだと思う。見つつ描き、描きつつ見る、というのを超えて、見ることと描くことが一体となっている。だからその統御が絶妙であっても全然「楽そう」に見える。実際、絵を見ることに素朴な人、適切な力のない人なら「子供の絵みたいだ」という可能性はあるだろう。そのくらい画面は無理なく呼吸している。カンディンスキーはあの音楽的な作品を作るのにかなりの備蓄を必要としており、実際その「頑張り」がカンディンスキーの画面に独特のテンションを与えているのだと思うけど、杉浦氏にはそのような突っ張り方がない。凄い。展示は明日まで。