間接性が育む親密さ・レンブラント光の探求/闇の誘惑展
国立西洋美術館で「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」展を見て来た。レンブラントの銅版画に焦点を当てた展覧会で、すごく充実していた。レンブラントの銅版画の魅力はもっともっと知られていいと思うし、その力はおよそ一般的な版画というイメージを超えていると私は思う。そういう意味では、展覧会タイトルやテレビで打たれていたCMなどの広報の部分で、ミスリードを誘うとまでは言わないものの、版画主体の展示である事が十全に前面に出ていない印象なのは気になる。一度会場に入れてしまえば大抵の人を納得させられる、という企画者の自信の現れということだろうか。さっきの意見とは逆の言い方に聞こえるかもしれないけれど、「版画」の一言を入れたうえで、タブローに劣らない魅力を伝達できれば、それがベストだったと思う。
いずれにせよ展示内容は素晴らしい。ことに異なるステート、エディションを並列して刷りの状態を見易くしていること、また和紙の使用に焦点をあてて紙(基底材)全般への視点を分析的に展観していることなど、全体に国立西洋美術館の名にふさわしい、研究的かつ啓蒙的な展覧会だったと思う。雁皮刷りの作品を単に「和紙に刷った」とだけキャプションして、その下にある支持体の紙へのコメントがないところなど気になったし、比較の為とはいえちょっと良くない刷りではないかと思えるものも散見されたが、そこまで含めて面白く見所がある。国際シンポジウムが震災の影響で中止になったのはつくづく残念で、国内の人だけで何らかの形で再開催されてもいいのではないだろうか。
レンブラントの銅版画の魅力はある種の「ラフさ」にある。1639年の「石の手摺りにもたれる自画像」などは典型的だとおもうのだが、線が型にはまらず技法的なセオリーにもはまらず、ほとんど鉛筆でスケッチしているかと思う程自在だ。とくにドライポイント(腐蝕をせず銅版に直接線を彫る)の線の「楽な感じ」は驚くべきで、ビュランのアカデミックな感じはほとんどないと言っていい。光/闇の二分で見てしまうと危険なのだが、このへんの魅力はむしろ明るい面から半調子の部分に集中的に見られる。「石の手摺りにもたれる自画像」であれば顔の周辺、あと石の手摺りの所だろう。
こういった、まるで今さっきレンブラントが線を引いたかのようなフレッシュさとの関係で見えて来るのがレンブラントの「黒」、上記作品であれば衣服の黒なわけで、非常にニュアンスにとんだ「黒」は単に潰そうと機械的に線刻されたのではない。「オンファル」(1645年)もそのような半階調の線の力がよくわかる。「羊飼いへのお告げ」(1634年)などは後のギュスターヴ・モローやルドン、ウイリアム・ブレイク等の象徴主義を直接想起させる。
この階調の構築は、単に白から黒へのなだらかなグラデーションとしてあるではない。各波長の反射光を並べるのではなく組み合わせていること、それがレンブラントの版画にモノクロではない「色彩」を感じさせることに繋がっている(質の悪い後世の刷りはそこを理解していない)。トンの音楽的配置は上記で示した、自在な線によって可能になっている。もちろんこの自由さは銅版画技法の厳密な理解の上で可能なわけだが(勝手に引いた線の「勝手さ」を製版する難しさは言うを待たない)、それにしてもレンブラントの銅版画は、この画家の圧倒的なドローイングの実力と才能をきちんと定着する上で最適な技法だったのかもしれない。
描きの喜び、線を組立てていくことのおもしろさ、それが積み上がって空間が、光が、トン=色彩が現出する興奮が生々しく見てとれる。レンブラントの銅版画にある、独特の親密さは、このような作家の描きが今ここに現前している、と思える所にある。これはとても不思議な話で、画家のインデックスが直接見られるタブローではなく、版というものに仲介され、かつ複数のエディションが流通する銅版画に親密性が宿り育まれるのは、もはや魔法的と言っていい。この線の表出は、むしろ後期のレンブラントの主要な問題であるブラッシュストロークと関係づけてみてもいいのではないだろうか。
家族や親しい人、身近な風景などがモチーフに出て来ることは、そういう意味ではとても得心がいく。おそらくレンブラント自身も、自分の銅版画が「間に版=メディアを挟むことで強調される生々しさ」を持っていることを深く理解していたのではないか。タブローよりも商品性が高かった(相対的に短時間で制作でき、小型で持ち運びしやすく、複数刷ることができる)というメリットだけでこれほどのめり込むことは不可能だろう(商業的視点もレンブラントの近代性を語る上で重要な切り口だとは思うけれども)。「エッケ・ホモ(民衆に晒されるキリスト)」の初期のステートから手前の群衆を削り取るところとかメチャクチャでそれも面白い(しかしあの第一ステートは試刷りといった方がよいのではないか。ステート、と言っていいものかどうか)。