感情と形式が結びついたリズム/芸大コレクション展

東京藝術大学大学美術館で「芸大コレクション展―春の名品選」。同時に開催されていた「香り かぐわしき名宝展」は興味なかったのだけれども、国立西洋美術館レンブラントを見た後iPhoneでチェックしてみたらコレクション展だけなら300円で見られる、と分かったので見てみた。一室しか使わない、小規模な展覧会だけれども、良い作品が見られたと思う。


私が一応目的にしていたのは高橋由一の「鮭」と「花魁」の再見で、実際改めて見て特に「花魁」なんかはとても面白い絵だと思ったのだけれども、意外な新鮮さをもって見えたのが小倉遊亀の「径」(1966年)で、この絵で目を引くのはなんと言っても画面を左から右に流れて行く音楽性・リズムだろう。向かって左、上から平たく八の字に広がる日傘、少し絞られた八の字になる母親の上半身、そこからぶら下がる八の字の鞄、重なるようにスカートの八の字、一番下に歩む2本の足の八の字。これが相似形に縮小されて画面真ん中におかっぱ頭(これも八の字だ)の小さな娘の日傘、上半身、きんちゃく、スカート、二本足の八の字。画面右にさらに小さく犬の四つ足の2つの八の字。この配置が明快で軽やかなテンポを刻んでいる。


基本的に絵画は運動、あるいは継起する時間を描くことが難しい。だからこそ絵画で繰り返されて来た試みが画面にいかにして運動、時間、リズムを導入するかでもあって、小倉は「径」でこの課題にとてもエレガントな回答を出している。画題的には、先行する母親の足取りを真似る小さい女の子のおしゃまな姿を描く事で実にユーモラスな感情移入を誘いながら、形式的には幾何学的なパターンを反復する。そしてその二つ、表面に顕在するお母さん-女の子-犬の歩みと、背景でそれを組織する潜在的な図像反復を見事に融和させて、一枚で全体を見るメディアである絵画に、固有の時間を創ることに成功している。ほとんど宮崎駿の映画「となりのトトロ」でも見ているようなスクリーン性を現前させる手腕は鮮やかなもので、正直いままで関心をはらってきたとは言い難い小倉遊亀という画家への認識を改めさせられた。


同時に展示されていた杉山寧の「野」(1933年)が、大きな空間に埋没する子供達の丸い頭部のコンポジシオン自体は悪くないものの、その工芸性と暗い色彩でやや硬直して見えたのに比べ、小倉の色彩と画面の呼吸感はずっと魅力的に見えた。あと、まったく関係ないが高山辰雄が後に妻にした女性をモデルに砂丘に女学生を横たわらせた「砂丘」は思い切りエロティックな絵で、1936年からもう「セーラー服萌え」はあったんだなと分かった。というよりは「制服」のような近代的な「押さえ込み」のシンボルに身体を縛り付けるような倒錯した感覚を持つのは普遍的な話なのだろう。こういう画題と構成を卒業制作に選んで完璧に仕上げてしまうのはある意味すごいなと思う。小磯良平の卒業制作「彼の休息」は画面のひび割れが酷く、とくに顔の部分の状態が悪いのが目につくけれども、小磯らしいクリアな描写テクニックはよく見てとれる。色彩は退色しているように見えない。ひび割れは画材の問題ではなくあくまで絵の具層の構築の問題だろう。乾燥を急いだのかもしれない。


この展覧会の目玉である国宝「絵因果経」は、天平時代(8世紀後半)という制作年代を考えると保存状態の良さに驚くべきだと思う。まるでこのあいだ描かれたかのような鮮やかな色彩は、そのおおらかなタッチと相まって非常に生き生きとしている。素材が一級品であったという以上に、長い時代に渡って大事にされてこなければあり得ないフレッシュさだ。可能であれば奈良国立博物館のもの(元々一つのものだったとのこと)なども見てみたい。フェノロサ鑑定書、文部省往復文書などの資料が展示されていたのはもしかすると最近のこの「絵因果経」の由来問題に応答するためだろうか。岡倉天心の鑑定書が金刀比羅宮の宝物殿に十一面観音像や狩野探幽の作品などと一緒に展示してあったのを思い出した。奥にあって目立たないが、中国・北周時代の菩薩立像、五胡十六国時代の仏坐像等と日本の白鳳時代の三尊像、平安時代の菩薩立像残片とかを比較してみることのできるコーナーは興味深かった。まだこの頃は日本の仏像も和様化の過程にあってどこか独特だ。快慶の大日如来坐像なども見ることができた。今は一度閉まっているが、6月7日(火)〜6月19日(日)に再度開催されるそうだ。